無外流剣術の母流とも言うべき山口流剣術は、宮本武蔵と同時代に生きた兵法家・山口卜真斎(ぼくしんさい)によって創始された剣術の流儀です。
宮本武蔵と山口卜真斎の生没年を並べると、二人がまったく同じ時代を生きたことがわかります。
宮本武蔵 1584 〜 1645
山口卜真斎 1582 〜 1656
なお、山口流剣術は、本来の名称は「山口流兵法」です。「兵法」以外にも「刀術」「剣法」と記載された目録類があり、江戸後期になると「山口流剣術」が一般化していることから、ここでは「剣術」に統一して話を進めます。
無外流という名称がようやく知られるようになった今日でも、山口流剣術について語られることは皆無のようで、たとえば江戸時代を通じて、富山藩、土佐藩、会津藩に山口流剣術が伝承されたことを、藩の記録で確認できることすらほとんど知られていません。

歌舞伎「仇討天下茶屋」に登場す る伊藤将監。大野治長に仕えた武 芸者だったが、辻月丹の師匠と同 一人物かは不明である。 |
土佐藩系無外流に伝わる「都治記摩多資幸口伝書」によれば、山口流剣術は、山口卜真斎から伊藤大膳を経由して辻月丹に伝授されています。伊藤大膳という名前は、「都治記摩多口伝書」「月溪随筆」などの土佐藩系の史料にしか登場しない謎の人物です。
なお、豊臣秀頼の重臣だった大野治長の家臣に、伊藤将監という武芸者が確認できるため、これを山口流剣術の伊藤大膳だと書いた文献がありますが、裏付ける資料は見つかりません。
土佐藩系無外流に伝わる伝書類の中でも、とくに興味深いのは「山口流劔法仕方繪図」で、この伝書が描かれたのがキ治記摩多資英から都治記摩多資幸の頃と言われていますから、土佐藩系の無外流には、少なくとも初期においては山口流剣術の大刀術や小太刀術が伝承されていたことがわかります。
ここでは、無外流の研究目的という視点から、山口流剣術に注目しましょう。
山口卜真斎は、天正十年(1582)に常陸国の鹿島(茨城県鹿島市)に浪人の息子として生まれました。伝書から確認できる姓名は藤原家利で、家紋は「下り藤」、どうやら藤原氏の末裔を名乗っていたようです。幼名は武蔵之助、後に十郎兵衛、その後に右馬之助を名乗ります。目録で確認できる姓名は、藤原朝臣山口右馬之助家利(ふじわらのあそんやまぐちうまのすけいえとし)で、卜真斎は武号になります。

下り藤 |
文禄三年(1594)に13歳で鹿島の天流庄平保高と言う武芸者に入門します。このとき学んだ流派は天流で、この天流という流儀は、天流保高の父・天流左衛門尉(さえもんのじょう)保国によって創始されたと説明があります。
さらに鹿島で天流の修行を続け、慶長七年(1602)21歳のとき、天流保国の門人の吉川兵庫入道重次という人物から天流の奥義を授かります。
その後に廻国して、慶長十三年(1608)には27歳で鞍馬流の皆伝を許されます。さらに35歳までの九年間で、天然流、丸目流、神当流、富田流、伊井流(ママ)などの諸流を学び奥義を極めました。
この九年間の諸国武者修行で七人の武芸者と立ち合い、誰にも負けなかったと書いてありますが、少々信憑性に乏しいと言わざるを得ません。なぜなら、この七人のうち六人までは伝書に名前が記載されているのですが、その名前を見てビックリです。例えば、伊井流の伊井篠長威斎(ママ)。おそらく、今日では香取神道流の祖として知られる飯篠長威斎のことだと思われますが、飯篠は15世紀頃の人ですから時代が合いません。それ以外にも、丸目流の丸目蔵人佐(一般には新陰流、タイ捨流として知られている)、流派名は不明ながら疋田豊五郎(新陰流、疋田陰流?)、有馬豊後守(徳川家康の三河時代の剣術指南役の有馬満盛のこと?)、八重垣兵衛介(八重垣流小太刀?)などの「諸国諸流の達人と試合をして誰にも負けなかった」となると、大ボラと決めつけることは出来ないものの、真面目に詮索しない方が良いようです。
山口卜真斎が山口流剣術を創始した経緯については、富山藩に伝わる伝書類から知ることが出来ます。例えば、「山口流感応之巻」の冒頭には、山口卜真斎が39歳のときの出来事として、つぎのような内容が記されています。
「元和六年(1620)4月28日の朝、自宅の南側の庭で美しい掛け声を聞いた山口家利(卜真斎)は、怪しんで物陰から覗き見をした。すると、異人の童子が、扇形の長短二本の木刀を恭(うやうや)しく両手に持ち、呪文を唱えながら「車勝剣」「破勝剣」「砕勝剣」の三つの術をお遣いになっていた。天空には竜巻・稲妻が激しくとどろいていた。童子が短い方の木刀を空に向かって投げ上げると、木刀は雲の合間に消えてしまった。山口家利が木刀の飛行に気を取られている隙に、童子も消えていた。山口家利は、先ほどの童子が摩利支天の使者だったと観念し、この神術を奥義として山口流剣術を創始した。」(山口流感応之巻)

丸目長恵筆「新陰流目録」より。
「扇形の木刀」とは修験者の羽扇の
ことだと思われる。 |
ここで登場する「異人」とは、外国人の意味ではなく、山岳修験者(山伏)を意味すると考えられます。「扇形の木刀」とは、修験者が持つ「孔雀扇」「羽扇」と呼ばれる物で、修験者は普段これを腰に差しています。
また、ここに登場する「童子」とは、本来の解釈は子供のことではなく、例えば酒呑童子のような仏や菩薩に仕える者の総称を意味しますが、この従者を子供の造型として描かれることもあるため、子供の姿をイメージしても間違いではありません。
「恭(うやうや)しい」は、本来の意味は「丁寧で礼儀正しい」ということですが、動作を表現するときには転じて「両手」で行う動作を表現します。片手の動作よりも、両手の動作の方が、より「丁寧で礼儀正しい」ということです。
こうして山口流剣術を創始した山口卜真斎は、京都で「日本無双」の高札を掲げていた七人目の剣客・新富田某との勝負に挑み、「車勝剣」で新富田に勝利します。以後、新富田は「日本無双」の称号を山口卜真斎に譲り、自らも山口卜真斎の門に下り、後に山口流剣術のほとんどの形(かた)の編纂を努めることとなります。
ここで重要なのは、山口流剣術が二刀流からスタートしたということです。それも、戦国時代かそれ以前より続いていた古伝二刀流とも表現すべき流儀です。
さらに同伝書を読み進めると、山口流剣術では初めに授かった技が二刀流であり、「車勝剣」「破勝剣」「砕勝剣」の三本の二刀流の技と「秘剣之大事」「口呪之大事」の計5つを「根元」と呼んでいることがわかります。
「秘剣之大事」とは、二刀流において所持している片方の剣を手裏剣のように相手に投げつける技法で、逆に相手の投げた手裏剣を封じる技法が「飛剣留」として同伝書に記されています。
「口呪之大事」は密教や修験道で用いられる「九字護身法」のことで、同伝書にも九字印(横5本縦4本の線からなる格子形)が記載されています。また、「口呪」とあるので、異人の童子がしたのと同じように呪文を唱えながら刀剣を振り回したのでしょう。
「九字護身法」で有名なのは、映画や漫画に登場する忍者が、術を使うときに両手で印を結ぶ(切る)動作です。この印を結ぶ動作は、「九字九通り(=81通り)」と言われるほど多くの方法が存在し、ほとんどが「口伝」(くでん)であるため、真実は謎に包まれています。山口流剣術でも、九字印を切り呪文を唱える目的が「護身」と相手を「金縛り」にするためである...までは読み取れるのですが、印の結び方や呪文については「口伝」とあるのみでよく分かりません。ただ、摩利支天の呪法である「穏形法」であることは伝書にも記載されています。
よく知られた「穏形印」であれば、下図のような手印を結び「オンマリーソハク」という呪文を唱えます。

隠形印の一例 |
ちなみに、こうした印の切り方は百種百様ではあるものの、どんな動作であっても到達する結果は同じであることを、真言密教では「萬法帰一」(ばんぽういつにきす)と表現します。この「萬法帰一」という言葉は、無外流の辻月丹が到達した境地を表現した、「景徳傳燈録」(けいとくでんとうろく)や「碧巌録」(へきがんろく)にある公案の禅語と同じです。
断定は出来ませんが、辻月丹が禅修行に目覚める前には、天狗伝説でも有名な修験道の本場である愛宕山(京都)や岩尾山(滋賀県)で荒行を繰り返していたわけですから、辻月丹は山口流剣術の修行のカリキュラムの一環としての密教修行をしていたのかも知れません。
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