ここで、山口卜真斎が21歳まで鹿島で学んだ天流という流儀に注目しましょう。
天流といえば、塚原卜伝の高弟だった斎藤伝鬼(伝鬼房、伝鬼坊)によって創始されたというのが通説です。また、念流の樋口又七郎と、天流の村上権左衛門の勝負の逸話は、講談でも語られたほど有名です。

新当流略系図
斎藤伝鬼勝秀(1550〜1587)は、常陸国真壁郡井出村に生まれ、父親は小田原北条氏の小番衆だったと言われています。幼名は金平、後に主馬之助と名乗り、十二歳の頃に鹿島の塚原卜伝に鹿島新当流の手ほどきを受け、また鹿島神宮の神官だった吉川氏から鹿島中古流を、同じく鹿島神官の家系だった松岡兵庫助則方から鹿島新流や香取神道流を学びます。
この頃の流派名は、必ずしも確立していたとは言えないので、要するに「鹿島・香取の太刀」を学んだ、ということでしょう。
享保年間の「本朝武芸小伝」には、天正九年(1581)に三十二歳の斎藤伝鬼が鎌倉の鶴岡八幡宮に参籠したときに、修験者風の老人に妙技を伝授されたとあります。
去ろうとする老人に斎藤伝鬼が流派を尋ねると、老人はカラカラと笑い、天を指差して一条の煙のごとく姿を消してしまいました。
「そこで伝鬼坊、得たとばかり、我が頓悟した兵法を天流と名づけた」とあるように、この瞬間に天流が創始されたのです。この物語は、山口卜真斎が異人から妙技を授かる話と酷似していることがわかります。

「武芸百人一首」の斎藤伝鬼坊の
図。一説では、20人以上から弓矢
を浴びせられ、ハリネズミのように
なって殺された。 |
その後、正親町(おおぎまち)天皇の紫宸殿で「一刀三礼」と言う秘術を披露し、「左衛門尉」(さえもんのじょう)の位を賜ったと云われています。「左衛門尉」は、律令制度における四等官のうちの第三位の役で、通称「判官」(ほうがん)と呼ばれます。ちなみに源義経は、歌舞伎や講談では「判官」と呼ばれますが、これは朝廷から「左衛門尉」を授かったことに起因します。
斎藤伝鬼は、「羽毛を以て衣服と為す。其体殆ど天狗の如し」と言われたように天狗のような格好をしていたようです。斎藤伝鬼の名前に「坊」を付けるのは、室町時代に天狗の名前に「坊」を付けるのが習慣になったからだとも言われています。
数々のエピソードを持つ斎藤伝鬼でしたが、兄弟子筋の真壁闇夜軒の息の掛かった者たちに誅殺され、三十八歳で生涯を終えました。
斎藤伝鬼の後の天流は、息子の斎藤法玄らに受け継がれました。

山口流剣術の目録には、
山口流剣術が斎藤伝鬼
の天流から始まっている
ことを示したものもある。 |
ここで、もう一度山口卜真斎が学んだ天流と比較してみましょう。
山口流剣術の目録では、天流の創始者は「天流左衛門尉保国」となっています。
山口卜真斎は、天流二代目の天流庄平保高に入門します。
天流保国の「天流」と斎藤伝鬼の「天流」が同じ物であれば、天流保国と斎藤伝鬼は同一人物ということになります。この二人が同一であることを立証する資料は存在しませんが、まったく同じ名前の流派が、同じ時代に同じ土地で創始され、どちらも「左衛門尉」であることから考えて、二人は同一人物と考えて間違いないと思います。
また、上写真のように、山口流剣術の目録のなかには、斎藤伝鬼の天流から始まったことを断言しているものも存在するのです。
山口卜真斎には、斎藤伝鬼の実名を隠さなければならなかったなんらかの理由があったのでしょう。
天流保国と斎藤伝鬼が同一人物とすれば、山口卜真斎が師事した天流保高とは、斎藤法玄のことになります。
では、山口卜真斎に免許皆伝を与えた、吉川兵庫入道重次とは何者でしょうか?
吉川重次が仮名である可能性も大きいので、これも確かなことは言えません。仮名とすれば、天流保国の高弟ですから、系図に登場する多賀谷重経などが該当しますが、おそらく系図には載っていない人物も候補と考えて良いでしょう。

安藤広重「常陸鹿島大神宮」 |
吉川と言えば、代々鹿島神宮の神官の吉川家は、常陸鹿島城主・大掾(だいじょう)家の家老職をつとめた名家として知られています。
鹿島神宮の神官の中で、とくに刀術に優れた七人を鹿島七流と呼び、吉川家もそのひとつです。
吉川氏の姓は「卜部」(うらべ)と言います。例えば徳川家康なら、姓は「源」(みなもと)です。
吉川家に生まれた最大のスーパースターが、塚原卜伝で、彼は塚原家の養子になってから剣術を極めるのですが、自分が卜部氏の出身であることは生涯忘れず、「卜部氏の伝える剣」という意味の「卜伝」を名乗ります。
吉川重次が、この卜部家の一族であれば、山口家利が「卜真斎」を名乗ったのも、卜部家ゆかりを意味したものと考えられます。
また、吉川兵庫入道重次の「兵庫」にも注目です。
吉川家と同じ「鹿島七流」の中のもう一方の雄が松岡兵庫守家ですから、松岡一族の出身と考えることも出来ます。
山口卜真斎に皆伝を与えた吉川兵庫入道重次が、実在の人物なのか仮名なのかは不明です。仮名だったとすれば、この時代の鹿島香取出身の剣客にとって、吉川・松岡という名前が、「鹿島・香取の剣」の象徴として意識されていたことを意味するのでしょう。
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