前述した山口流剣術の誕生エピソードに注目して、キーワードを「山岳修験者」「天狗」「二刀流」として焦点を絞ると、我々は源義経の頃にまで考えを広げなければならないという結論に至りました。
所謂、京八流と呼ばれる剣術です。
山口卜真斎の学んだ流派で、源義経にイメージが近いのは鞍馬流になりますが、鞍馬流そのものが謎の多い剣術流儀ですし、「鹿島・香取の剣」も京八流が源流だという説もあるので、ここでは特定の流派に限定はしないで考えようと思います。

鞍馬山奥にある僧正ヶ谷の魔王殿。
義経はこの付近で天狗を相手に剣術の
稽古に励んでいた。 |
当時の義経剣法に二刀の技法が存在したことを実証する証拠を示すことはできませんが、源義経の剣術に注目すると興味深い事実に到達することができます。
そもそも、源義経の時代に本当に剣術は存在していたのでしょうか?
鎌倉時代に成立した「平家物語」には「蜘蛛手(くもで)」「角縄(かくなわ)」「十文字(じゅうもんじ)」「蜻蛉返(とんぼがえり)」「水車(みずぐるま)」という剣術の技が、平安時代末に存在していたことを物語っています。刀剣に鎬(しのぎ)が生まれ、反りのある彎刀(わんとう)に変わったのは平安時代の中期と言われていますから、新たに登場したこの「日本刀」に相応しい操作法として、剣術が生まれたのは自然の流れだったのでしょう。
それ以前に刀剣が使われた伝承としては、日本書紀で八岐大蛇を退治するスサノオ尊や、七世紀後半の大津皇子(おおつのみこ)の武勇が知られています。
彼らは二刀流ではありませんが、一刀流剣術のように両手で一本の刀を握る諸手刀法ではなく、右手だけで刀剣を握る片手刀法でした。もう一方の左手は、防御のための楯を持ったり、別の武器を持っていたようです。

疋田伝新陰流の目録に
ある軍配勢法の例。 |
このように、一本の刀を片手で操作する片手刀法は、室町時代になって二刀剣術、小太刀術、軍配勢法などに昇華して行ったと言われています。
軍配勢法とは、右手に太刀、左手に軍配や扇子や陣笠などを持つ刀法で、疋田文五郎の新陰流目録にも登場します。
中世の戦場では、軍配を持って兵を差配することもあったのでしょうが、軍配を持たない場面では陣笠や扇子、あるいは脇差や太刀の鞘までもが利用されます。
こうした片手刀法と二刀流に密接な関係が存在したことを臭わせる例が、じつは講談の世界にもあります。江戸時代でもっとも人気があった剣豪・荒木又右衛門の物語です。
「荒木又右衛門奉書試合」という話では、荒木又右衛門が、又右衛門の師柳生十兵衛三巌から授かった「松陰(まつかげ)」という技を、柳生宗冬(十兵衛の弟)に伝授するために、牛込の柳生屋敷の道場を訪れます。そうとは知らない柳生宗冬は、刀を抜いて荒木又右衛門に斬り付けます。このとき、荒木又右衛門は太刀を取らず、道場の神前の御神酒徳利の奉書紙を丸めてを右手に持ち、柳生飛騨守宗冬と立ち合います。

講談やドラマに描かれる荒木
又右衛門は、片手刀法や二刀
流で登場する。(「天下の伊賀
越 暁の決戦」東映映画) |
そして、お馴染みの講談「鍵屋の辻・三十六番斬り」では、荒木又右衛門は二刀流で登場するのがスタンダードです。
このように、片手刀法と二刀流は、講談やドラマの世界の中でも、昔から深い関係があるものとして描かれているのです。
余談ではありますが、江戸時代の剣豪で、荒木又右衛門が人気ナンバーワンというのは、今日では信じられないことかも知れません。これは、当時の武士や庶民にもっとも人気があった物語は、苦労して仇(かたき)を探して本懐を遂げるという「仇討ち物」で、荒木が「仇討ち物」の最大のヒーローであったこと、またその話が実話を下敷きにしている点が受けていたのだと考えられます。
例えば、享保年間に作製されたされた「剣法名誉侠客倚人鑑」という剣客の人気ランキング(人気剣豪番付)にしても、荒木又右衛門は最高位の東の大関に君臨しています。この時代の相撲の最高位は大関で、西の大関より東の大関が上になります。ここでは番付外の後見役として「柳生流剣法 柳生十兵衛」「一刀流剣法 伊東一刀斎」の両人が名を連ねています。

剣法名誉侠客倚人鑑(部分)
なお、この番付での荒木又右衛門の流儀は「柳生流一刀」となっています。講談では「一刀柳生流」と扱われることも多いので、おそらく西の大関の「神免二刀流」とのバランスを配慮して、「一刀」の文字を左側に独立させたものと考えられます。ただし、「柳生一刀流」とすれば解決する話なのですが....。ちなみに、講談では「柳生一刀流」という言い方も使われます。
さて、源義経の剣術は二刀流だったのでしょうか?
源義経と言えば、「壇之浦の八艘跳び」「鵯越(ひよどり越え)」のエピソードが有名で、剣術家として活躍したイメージはありません。それもそのはずで、源義経の伝説の中で剣術が登場するのは、牛若(丸)と名乗った幼年時代しかありません。
「平治の乱」の敗北で父・源義朝は殺され、まだ乳呑み児だった牛若は、母・常磐御前が嫁いだ平清盛のもとで育てられます。後に、常磐御前は藤原長成という身分の低い公家と再婚し、長成の配慮で牛若は鞍馬寺に預けられました。牛若が七歳の頃と言われています。
鞍馬寺は平安京の北の鎮守として古くから朝廷の信仰が厚かった寺院ですが、その境内は昼でも陽が差さぬほどの森林に囲まれ、反権力的で不穏な雰囲気が満ちた場所でした。
牛若は鞍馬寺に入るにあたり、僧になることを義務づけられていましたが、おとなしく経文を読むような子供ではありませんでした。
この頃のことを「平治物語」では、「昼は終日に学問を事とし、夜は終夜武芸を稽古せられたり」と記しています。

牛若鞍馬修行図(部分) |
さらに、牛若は鞍馬寺の背後の僧正ヶ谷に出かけ、天狗のような姿をした荒法師と武芸の鍛錬に励みます。この荒法師こそが、後に「天狗」として語られる存在で、例えば江戸時代の歌川国芳が描いた「牛若鞍馬修行図」では、鞍馬山の大天狗・僧正坊から剣術を習う牛若が二刀剣術を用いた姿が描かれています。
また江戸時代の講談「鞍馬山上の武術」には、木の枝から縄にくくりつけて吊した棒を、牛若が両手の木剣で左右に叩いて修行したという話が残されています。
こうして十六歳までの多感な時期を、牛若は鞍馬山で過ごしました。 鞍馬山中での修行の合間には、しばしば洛中を彷徨して自らの武芸の腕を試したとも言われ、そんな時期に出会ったのか武蔵坊弁慶でした。
牛若と弁慶の出会いエピソードもいくつか存在しますが、もっとも有名なのは、五条大橋で牛若の刀を奪おうとした弁慶が、牛若に敗れて主従関係を結んだという話でしょう。このときの牛若の描かれ方として定着しているのが、右手に剣を持ち左手に扇を持つパターンです。
つまり牛若は、諸手刀法ではなく、片手刀法で弁慶と戦ったと語られているのです。

結局のところ、義経が二刀流だったかについては断定も出来ませんし、山口流剣術の二刀剣術が、どの流派の影響なのかも証明できません。 また、牛若が諸手刀法を用いている絵図も存在します。
しかしこうして伝承されてきた物語は、戦国時代の剣術に二刀剣術の技法が存在していたことを示していると言えるでしょう。
そしてこうした片手刀法や二刀剣術の技法は、小太刀術や軍配勢法として、あるいは二刀流として受け継がれていくことになったと考えられます。
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