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山口流剣術とその時代   最終回

 山口流剣術とその時代


最後に、山口卜真斎が生きた戦国最末期から江戸時代初期が、武芸者にとってどのような時代だったのかを検証したいと思います。

今日の「武士道ブーム」から想像される武士の姿とは、一人の主人に生涯の忠誠を尽くし、潔い生き方を心情にする「葉隠」(はがくれ)や新渡戸稲造的な「武士道」に登場する武士を連想しがちです。しかし山口卜真斎の時代は、まだそうした価値観が確立されていたとは必ずしも言えない時代でした。
例えば、山口卜真斎の愛弟子の渡辺勘兵衛に注目してみましょう。

渡辺勘兵衛正次は、永禄五年(1562)に近江国浅井郡の郷士・渡辺右京の子として生まれていますから、師である山口卜真斎よりも20歳も年長になります。どんな経緯で息子ほどの年齢の山口卜真斎に入門したのでしょうか?

その前に、渡辺勘兵衛の経歴を簡単に紹介します。
初めは近江の小豪族の家臣で、織田信長・信忠父子の甲州攻略に加わり、織田信長からは「槍の勘兵衛」として称賛され、一躍その名をとどろかせます。
その後、主家に嫌気がさして浪人し、天正十年(1582)頃には羽柴秀吉の甥の羽柴秀勝に仕え、ここでも数々の武功に輝きます。しかし、天正十三年(1585)に羽柴秀勝が没すると、渡辺勘兵衛は再度主家を辞することになります。
次に、近江国水口城主・中村一氏に仕え、小田原北条氏征伐では伊豆山中城攻めで一番槍という大きな武功をあげるものの、戦後の恩賞に不満を持ち、三たび浪人します。
続いて豊臣家五奉行の一人・増田長盛に仕えます。関ヶ原の戦いでは西軍についた増田長盛の出陣中に、居城の郡山城を任され守り抜きます。

 藤堂高虎像と今治城。400年前に築城さ
 れた今治城は、渡辺勘兵衛が普請奉行
 を務めていた。
増田長盛の改易後、同郷でもあった藤堂高虎に仕えます。
山口流剣術の目録にある「藤堂和州」とは藤堂和泉守高虎のことです。
ここで、新たに藤堂高虎の居城となった伊予国(愛媛県)の今治城の普請奉行や、伊賀上野城代家老などを歴任しました。大坂冬の陣では、藤堂勢の先鋒を務めたものの、主君高虎と戦術を巡って衝突し、長宗我部盛親の部隊に大敗北を喫してしまいます。そのため、戦後出奔して再び浪人となり京都で暮らしました。
多くの仕官の口があったものの再仕官はせず、京都で79歳の生涯を閉じました。一説には、他家に仕官できないように、藤堂家が手を回していたと言われています。

京都での浪人時代に出会ったのが、「日本無双」を掲げていた山口卜真斎でした。渡辺勘兵衛は、その晩年に山口流剣術を知ったのです。

生涯浪人として生きた渡辺勘兵衛ですが、必ずしも貧しかったわけではないようです。藤堂家の記録をまとめた「公室年譜略」という書物には、この頃の渡辺勘兵衛を「世ニ知ラレタル浪人」として、京都中の浪人達の首領として過ごしていたことや、細川忠興(肥後熊本藩主の父)や徳川義直(尾張藩主)らから援助を受けていたことが記されています。
浪人と言っても渡辺勘兵衛の場合は、裏長屋で傘張りをしているイメージとは異なったようです。


 渡辺勘兵衛が城代を勤めた伊賀上野城。
 築城の名手として知られる藤堂高虎は、
 この他にも江戸城、二条城、名古屋城、
 日光東照宮などの建築を手掛けた。
渡辺勘兵衛は、生涯にわたって五人の主君に仕えていますが、これはけっして珍しい例ではありません。
近江彦根藩の二代藩主・井伊直孝(1590〜1659)の言行を集めた「円心上書」には、渡辺勘兵衛も顔負けの武士が登場します。その名は大河内茂左衛門。大河内は、どこに仕官してもその年の暮れまで居着いたことがないため、別名「煤(すす)つかずの茂左衛門」と呼ばれていました。竈(かまど)に煤が付くより前(1年以内)に去ってしまうと言う意味です。結局、井伊家でも茂左衛門に逃げられてしまうのですが、井伊直孝は「侍一道に御座候」と大河内茂左衛門の去り方を見事であると讃えました。

これらの例から、この時代の武士道には「忠臣は二君に仕えず」という価値観がまだ希薄だったことが推測できます。
では、武芸についてはどのように考えられていたのでしょうか?

じつは、戦場において刀槍が重要視されていたのは、むしろ山口卜真斎より以前の時代でした。すでに卜真斎の時代には戦場での武器が刀槍から、長槍、鉄砲、さらに大砲の時代に移っていました。長槍は武芸者が使う槍ではなく、訓練の未熟な足軽が使用するものです。戦場で刀槍は使われていなかったのです。
そのため、武士にとっての武芸とは、戦場で手柄を上げるための手段ではなく、例えば仕官するときの上申書(釣書)に記載するための「嗜み」(たしなみ)としての価値に変わっていました。もちろん、武芸に精神性や深い価値を求めたり、健康増進の一手段として捉えたりといった、「嗜み」以外の例も一部には存在しますが、少なくとも武芸で出世や仕官を果たすとという利用価値は無くなっていたのです。

例えば、関ケ原合戦で東軍第一の活躍をしたのは、首級十七をあげた可児才蔵(かにさいぞう)という人物です。可児才蔵は福島正則隊の先鋒の一人で、寶蔵院流槍術の達人と言われた人物でした。しかし、関ケ原合戦後に、軍功で大名に取り立てられた人物は、可児才蔵を含めて一人もいないのです。徳川家康の譜代家臣の中に、大名に取り立てられた人物が24人いるのみですが、これらは長年の功労に対しての恩賞であって、軍功によるものではありません。

また武芸の流派において、家元を頂点にした教授システムを確立するのは徳川家綱の時代と言われています。これは、幕府や各藩の統治制度が出来上がる過程で、学問や武芸の師範が必要とされ、名のある武芸者の元には人が集まり、やがて流派として成立することになるからです。山口卜真斎や渡辺勘兵衛の頃は、まだこうした流派として確立する以前の時代でした。


渡辺勘兵衛の生涯を描いた池波正太郎の「戦国幻想曲」。
池波のほか、司馬遼太郎も渡辺勘兵衛を小説の題材に採り上げている。
渡辺勘兵衛の後、山口流剣術には山本新左衛門、児玉勝信という、近江国佐和山出身の浪人が入門します。山口流剣術の目録にある伝系図で不思議なのは、どの系図にも山本と児玉の主家には触れていないことです。渡辺勘兵衛が藤堂高虎の家臣だったことが書かれているように、こうした目録にはたいてい主家が記載されているものですが、山本と児玉の主家についてはまったく触れていません。
目録にあるのは、山本新左衛門が山口卜真斎から寛永十八年(1618)1月に免許皆伝を受けたこと、児玉勝信が山本新左衛門から万治二年(1659)9月に皆伝を受けたこと、それから児玉が桜木流居合も皆伝していることのみです。おそらく、彼らには主家の存在を明らかに出来ない事情があったはずです。考えられるのは、山本も児玉も、もともとは佐和山城主・石田三成の家臣だったからで、逆賊とされた西軍として従軍した経歴があったものと推測できます。
関ケ原合戦後、徳川幕府が西軍に従事した浪人の新規召し抱えを規制したために、山本や児玉の再就職に影響が生じたのでしょう。彼らは仕官先を求めて京都に出て、石田三成とも縁のあった渡辺勘兵衛を頼りましたが、西軍に従軍したという当時としては最悪の経歴が仕官の仇(あだ)になったと考えられます。

こうして考えれば、山口卜真斎たちは、「遅すぎた剣豪」と言うよりも、むしろ「早すぎた剣豪」と言うべきであり、彼らが道場流派の確立する元禄時代に生まれたなら、もう少し違った生涯を送っていたに違いありません。
しかし、彼らが残した剣術の遺伝子は、やがて辻月丹に組み込まれて無外流の中で生き続け、また富山藩にも伝承されて中山博道を通じて現代剣道にまで受け継がれて行くことになるのです。



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