水戸徳川家の家老・山野辺義堅(やまのべよしかた)は、二代藩主・徳川光圀の幼年時代から光圀に小姓として仕え、後に家老としても仕えた人物です。テレビ時代劇「水戸黄門」で、頑固一徹の国家老「山野辺兵庫」として登場するのは、この山野辺義堅のことです。山野辺義堅から 二代後の山野辺義達(よしたつ)は、宝永元年(1704)に二十四歳で水戸徳川家の家老職を継いだ頃から、無外流兵法の辻月丹に入門しました。
この山野辺義達に、無外流の激しい剣風の話を聞かされたのが、水戸徳川一族でも兵法数奇者として知られた、陸奥守山藩(現在の福島県郡山市)二万石の藩主・松平頼貞(大学頭)です。松平頼貞は、水戸藩初代・徳川頼房の四男松平頼元の嫡男で、徳川光圀にとっては甥にあたる人物です。無外流に興味を持った松平頼定が、小石川にある守山藩の江戸屋敷(現在の「教育の森公園」付近)に辻月丹を呼び出したのは、宝永年間はじめのことです。辻月丹は還暦も近く、松平頼貞は四十路を越えたばかりの壮年大名でした。
松平頼貞は辻月丹に尋ねます。
「その方の流儀は、最初から試合を仕(つかまつ)ると承り及ぶが、それに相違ないか?」

辻月丹が、「仰せの通りにございます。」と答えると、腕自慢の頼貞は即座に勝負を挑みました。辻月丹は、同伴をさせていた内弟子の杉田庄左右衛門に、頼貞との三本勝負の相手を命じます。最初はかしこまっていた杉田でしたが、勝負が始まると頼貞から立て続けに二本をとってしまったのです。日頃から兵法には自信があった松平頼貞も、さすがに頭に血が上ったのでしょう。三本目は力任せに杉田へ捨て身の体当たりを試みます。しかし、杉田が身体を軽くかわすと、頼貞は縁側から転げ落ちてしまいました。
面目を失った松平頼貞は、そのまま奥へ引きこもってしまい、二度と辻月丹たちの前には姿を見せませんでした。
後日、辻月丹と弟子の杉田庄左右衛門は、別の大名を訪れたときに思いがけない噂を耳にします。松平頼貞が、若い大名たちに、盛んに無外流を吹聴しているというのです。
「剣を学ぶならば、辻月丹がよろしかろう。ただし、あの流儀は初めから強く打つ流なれば、とても永くはお続けなさるまじ。」
やがて、松平頼貞自身も、辻月丹に入門することとなります。

徳川家康から松平頼貞までの系図 |
これは、無外流の特徴をよく表現している逸話として有名です。
大名が相手の立ち合い稽古であれば、三本に一本は相手に勝たせながら、多少の幇間稽古が当たり前の時勢にあって、無外流の辻月丹は、そんな風潮には背を向けた「求道(ぐどう)の剣」を実践していたのです。
この逸話と似た話をご存じでしょうか?
これは、映画「雨あがる」で、主人公の無外流剣士・三沢伊兵衛に、藩主の永井和泉守が立ち向かって、池に落とされてしまうシーンのモデルとなった話なのです。山本周五郎の原作小説では、永井和泉守が三沢伊兵衛と立ち合う場面はありません。原作では小野派一刀流の三沢伊兵衛を、映画で無外流に設定を変更したのは、原作にはない藩主との立ち合い稽古の逸話を挿入したかったからだけでなく、質実剛健で外連味(けれんみ)のない無外流のイメージが、三沢伊兵衛のキャラクター造形に不可欠だったからなのでしょう。
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