「無外流祖・辻月丹物語」では、辻月丹の生涯と、彼の創始した無外流兵法がどのような運命を辿って現在に至ったかに焦点を当てます。「青雲の章」「噴火の章」「不死鳥の章」という三つの章に分け、それぞれ「辻月丹の誕生から東下りまで」「江戸での無外流創始」「辻月丹の死後から現代まで」を採り上げます。
これまでにも、辻月丹が時代小説などに登場したことはありますが、そこで語られる生涯はどれも紋切り型のエピソードばかりです。こうした内容は、江戸後期に書かれた「武芸流祖録」「撃剣叢談」(げきけんそうだん)や大正期の「日本剣道史」、それから昭和初期の「無外全書」「土佐史談」などを種本としています。
我々は、二つの理由から辻月丹の生涯を再検証しようと思いました。
ひとつは、紋切り型エピソードのなかには信じ難いものも数多くあるため、歴史学の考え方に沿って一次史料を重視しながら検証し直そうと考えたことです。
断っておきますが、我々は、「摩利支天の化身から奥義を授かった」というタイプの話に目くじらを立てているのではありません。例えば、「宝永六年に将軍綱吉に謁見しようと願書を提出した」という話なら、綱吉が宝永六年1月10日に死去したことを知っていれば、有り得ない話だと疑問を抱くのが普通です。
こうした疑問を文献でさかのぼっていくと、途中で誰かが創作したのではないかと頭を抱えてしまうものも出てきます。つまり、これまでの辻月丹伝は、信憑性の高いものから疑わしいものまで、すべて混合(と言うより「混乱」)して伝わっている可能性が大きいのです。
ここで、唐突ですが宮本武蔵について考えてみましょう。
吉川英治が単行本で6〜8冊にも及ぶ長編小説を書き、大河ドラマでは1年間に渡って放送するくらいですから、さぞ豊富な史料にあふれていると思うかも知れません。
東京大学史料編纂所教授の山本博文著「日本史の一級史料」によれば、宮本武蔵にかんする史料として信頼できるのは、晩年に召し抱えられた小笠原家や細川家の「奉書」だけだそうです。この奉書には、宮本武蔵が低い石高で召し抱えられた事実のみが記載されています。
何万通にも及ぶ当時の藩主の手紙にも、他の武芸者の記述はあるにもかかわらず、武蔵については触れられていないことから、藩主にとっての武蔵は重要な存在ではなかったと結論づけています。
ちなみに、山本博文は「五輪書」も武蔵の弟子による捏造本だと斬り捨てています。
では、吉川英治は何を基にしてあのような長編小説を書いたのでしょう?
それは、武蔵の死後九年後に建てられた顕彰碑(小倉碑文)、百数十年後に書かれた「二天記」、さらにそれらを基に書かれた講談本などです。つまり、武蔵の生涯を記述したもので、ほぼ同時代のものは、小倉碑文以外にはほとんど見つかっていないのが実情です。

新免武蔵顕彰碑
通称「小倉碑文」と呼ばれ るこの碑に刻まれている宮 本武蔵の生涯は、貴重な史 料であるが、その内容につ いては疑わしい部分もある。 |
それまでの文献には、佐々木小次郎が鞘を投げ捨てた記述など無いのに、百年以上も後になって、
「小次郎、破れたり!」(二天記)
と目撃談のような提示をしても、それは作り話だと一蹴されてしまいます。
それでは、辻月丹についてはどうでしょうか?
前述した、「武芸流祖録」「撃剣叢談」といった剣豪の生涯をまとめた書物は、江戸後期のものなのでリアルタイムの記録ではありません。
辻月丹の生涯をはじめて記述したものとしては、享保年間に神田白龍子が書いた「雑話筆記」や南海月渓の「月渓随筆」などが考えられます。辻月丹が亡くなったのは享保十二年ですから、ほぼ同時代の史料と考えて良いでしょう。
では、これらが一級史料と呼べるかと言えば、やはり疑問が残ります。
神田白龍子(1680〜1760)は、軍学者で当時は日本を代表する刀剣鑑定の大家でもありました。本名は神田勝久と言います。 軍学者としての代表著作は、『太閤記大全』40巻、『豊臣勲功記』40巻、『浪速戦記大全』35巻、『豊臣実録』30巻、などで、軍学書好きの徳川吉宗にも拝謁を許されています。
『新刃銘尽』など刀剣鑑定に関する著作も多く、刀剣に関しても吉宗のアドバイザー的な働きをしています。
軍学者として大名や旗本にも招かれて講釈することが多く、こうした機会に大名の江戸屋敷で見聞きしたことを編纂したものが「雑話筆記」です。無外流は、五十以上の大名の江戸屋敷で稽古されたと言われますから、神田白龍子も辻月丹の豊富なエピソードを耳にしたのでしょう。

神田紺屋町(歌川広重「名所江戸
百景」より)
神田紺屋町は、落語の「紺屋高尾」
に登場する花魁の高尾太夫でも有
名な町である。 |
なお、神田白龍子を講釈師と紹介している文献がありますが、正しくありません。神田というのは、彼の住まいが神田紺屋町にあったからで、後の講談の神田派とは無関係です。神田白龍子は寄席で芸能としての講談を披露するような人物ではなく、むしろ豪商から軍学の講義を頼まれても応じなかったくらいプライドの高い人物でした。由井正雪のようなイメージで考えると良いでしょう。
宝暦十年(1760)7月23日、81歳で亡くなり、麻布の光専寺に葬られました。
「雑話筆記」に登場する辻月丹は、「月渓随筆」とは異なる部分も多く、また笑い話なども含まれているため、史料として盲信することはできません。 いっぽうの「月渓随筆」は、辻月丹の弟子の土佐藩士による口伝が中心で、土佐藩中心の記述になりますし、他の土佐藩士の書き残したものとも一致しない記述もあり、こちらも過信は禁物です。
辻月丹の検証が必要と考えたもう一つの理由は、彼が生きた時代の再評価にあります。
明治維新後、江戸時代とは封建的な暗黒時代というイメージで語られることが多く、とくに元禄時代は、庶民が犬公方と柳沢吉保に苦しめられた時代だとされてきました。しかし近年では、徳川綱吉や柳沢吉保の再評価も進みつつあり、元禄時代についても以前とは異なる見方が構築されつつあります。
時代の評価が変われば、当然そこに生きた人間の生涯も再検証する必要があります。
とは言うものの、辻月丹について書かれた一次史料は非常に少ないのも真実です。一次史料を優先しつつ、二次史料、三次史料で補完していかなければならないでしょう。
前置きが長くなりましたが、早速、無外流祖・辻月丹の生涯を見ていきましょう。
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