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辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語

       不死鳥の章  第二回

 〜 土佐無外流の祖

       (都治記摩多資英) 〜


土佐山内家は、武芸が盛んな藩として聞こえていますが、槍術・弓術・馬術・砲術などが主で、江戸時代初期の剣術には見るべきものがありません。            藩祖・山内一豊の好みが反映されたのでしょう。 

無外流兵法譚
山内一豊像
(土佐山内家宝物資料館蔵)

山内一豊の頃に、丹石流の衣斐(えび)市右衛門丹石が剣法指南役として仕えていましたが、その子の衣斐市右衛門光栄の代で途絶えています。これは、寛文3年(1663)、3代藩主・山内忠豊の頃、衣斐市右衛門の後見人だった土佐藩家老・野中兼山が政治的に失脚してしまったため、丹石流も一掃されたことによります。

4代藩主・山内豊昌は、山内家の新たな剣術流儀を江戸の柳生新陰流に求めました。
大和柳生藩4代藩主・柳生宗在から推挙されたのが出淵三郎兵衛で、元禄10年(1697)に豊昌は出淵を正式に土佐藩に召し抱えました。
すでにこの頃、山内豊昌と辻月丹は面識がありましたが、まだ無外流が土佐藩の御家芸になるような状況ではなく、山内豊昌にとっての辻月丹は、「武芸者の一人」程度の認識だったと思われます。

このまま、柳生新陰流は土佐藩に広まるはずでしたが、思わぬ落とし穴が待っていました。
国許に赴任した出淵三郎兵衛が、土佐藩士の国沢五郎左衛門との馬上での兵法試合に巻き込まれ、国沢に敗れてしまったのです。国沢は土佐藩の馬術指南役だったため、剣では出淵三郎兵衛に及ばなかったものの、馬上の勝負では断然有利だったのでしょう。出渕はこれを恥じ、知行を返上して土佐藩を去ります。
そして、新陰流に代わって登場するのが、辻月丹の無外流だったのです。

余談ですが、無外流よりも早く、土佐には浅山一伝流と真心陰流が民間に伝わっています。このうち、小笠原玄信斎を流祖とする真心陰流(しん(の)しんかげりゅう)は、宝永年間に土佐藩に正式に採用されましたが、無外流ほどは盛んになりませんでした。
また、同じく元禄期の土佐藩料理人頭に林六太夫(守政)という人物がいました。林六太夫は、弓、馬、剣、槍から太鼓、謡曲などの印可も受けていたと言われています。とくに、江戸で伊勢貞丈から学んだ有職故実の伊勢流礼法と、荒井勢哲(清信)から学んだ長谷川(英信)流居合兵法は、後に土佐藩で正式に採用されることになります。

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大國魂神社
(東京都府中市)

さて、前述したように、正式に御出入格となるのは、辻右平太が宝永4年(1707)、都治記摩多(資英)が正徳5年(1715)のことです。
都治記摩多は、東京都府中市にある大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)の大宮司・猿渡豊後の息子で、もとの名前は猿渡文五郎と言いました。

作家の池波正太郎は、半蔵門外の堀端で父親の仇討ちを成し遂げた杉田庄左右衛門と、都治記摩多資英の同一人物説を唱えていますが、杉田と都治記摩多が別人であることは、「無外流祖・辻月丹物語 噴火の章」に記載したとおりです。

池波正太郎の『剣客商売』の世界は、次のような背景で構築されています。


『そもそも「無外流」の剣法を創始したのは、近江甲賀郡馬杉村出身で、辻平内という人物である。平内はのちに「月丹」と号した。くわしい経歴は不明である。(中略)独身の平内が七十九歳の高齢で病没したのは享保十二年(1727)のことで、以後は道場を杉田庄左衛門が引き受け、名も「辻喜摩太」とあらためたのである。辻喜摩太も、生涯、妻を迎えず、したがって子もなかった。そこで、愛弟子の三沢千代太郎をもって後つぎとなした。千代太郎は、名を、「辻平右衛門」とあらため、道場を引きついだ。』 

 
         剣客商売 第一巻「剣の誓約」より


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都治記摩多資英の墓
(東京都品川区)

そして、この辻平右衛門の道場で「龍虎」「双璧」と呼ばれたのが、『秋山小兵衛』と『嶋岡礼蔵』という設定になります。秋山小兵衛の師である『辻平右衛門』とは、都治文左衛門(資賢)ということになりますが、ここで語られているエピソードのほとんどは池波の創作と考えて良いでしょう。

さて、都治記摩多資英ですが、前述したように六代藩主・山内豊隆のとき、正徳5年2月11日に二十人扶持という待遇で御出入格となりました。「喜摩太」や「喜間太」とも表記されることがありますが、「記摩多」が正しい名前です。
宝暦12年(1762)1月28日に亡くなるときは、白装束に身を包み座禅をしながら息を引き取りました。死の直前まで、中田勘蔵という弟子が土佐藩に仕官できるように尽力していたそうです。


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