都治記摩多資英の後を継いだのが、その息子の都治文左衛門資賢(すけたか)です。
都治文左衛門資賢も、父親と同じく土佐藩邸の御出入格となりましたが、俸給は十五人扶持に減らされています。
また、姫路藩の記録でも、剣術指南役の名前に『辻文左衛門』を確認できますが、これは都治文左衛門資賢のことです。都治文左衛門は、土佐藩邸のみならず、姫路藩邸でも剣術指南をしていたのです。

都治文左衛門資賢の墓
(如来寺/東京都品川区) |
都治文左衛門資賢は、天明七(1787)年7月15日に江戸で亡くなっています。
そして、その息子の都治記摩多資幸(すけゆき)が跡を継ぎました。
父親が亡くなってすぐ、同じく十五人扶持で御出入格待遇を引き継ぎ、享和二(1802)年5月18日には小姓格として正式に土佐藩士として召し抱えられます。
さらに、文化四年(1807)10月18日には、十五人扶持から切符二十四石七人扶持に、また小姓組から馬廻役に待遇がアップしています。
土佐藩では、「高掛」(たかがかり)<「扶持米取」(ふちまいとり)<「切符取」(きりふとり)<「知行取」(ちぎょうとり)の順で待遇が高くなり、小姓組より馬廻役のほうが階級が上ですから、出世と見て良いでしょう。
では、実際にどの程度の待遇アップなのか、簡単に計算してみます。
24石7人扶持と15人扶持を、米の重量に換算します。
@ 24石 + 7人扶持 扶持米の計算
一日5合×360日×7人=12,600合=12.6石 (7人扶持)
合計 36.6石 (=24石 + 7人扶持)
(扶持米は扶養家族手当のようなものですが、実際は同じ7人扶持でも家族の性別・構成などで支給額が異なります)
A 15人扶持 = 27石 に相当
つまり、27石だったのが36.6石になったわけで、実質的な実入りはほとんど変わっていません。むしろ、身分制度の厳しかった土佐藩で、名目上の家格上昇が行われた意義を考えるべきでしょう。
ちなみに、現在の米価を4000円/10kg として、米1石=150kg 換算した場合、 年収は
36.6石=5,490kg=2,196,000円 (税引前年収)
となり、仮に四公六民とすれば、武家側の取り分が40%ですから、
2,196,000円 × 40% = 約88万円 (税引後)
が武士の手取り年収になります。
貨幣経済の根本が異なるので、この換算自体は遊びだとご容赦下さい。
この都治記摩多資幸が書いたとされる起請文があります。この起請文は、「本文」と「罰文」から構成された、きわめて普通の起請文です。内容を読むと、じっさいには提出されたものではなさそうです。未提出のため、この起請文の目的や背景には今でもいくつかの説があるのですが、興味深いのは、流儀のことを「無外流居合兵法」と呼んでいることです。

都治記摩多資幸の起請文(文化6年1月付) |
ちなみに、土佐藩庁の記録を調べても、無外流が居合に分類された歴史はありません。
土佐藩では、居合を「居合兵法」と呼ぶことが日常化していたようで、土佐藩の記録で「長谷川流居合」を確認すると、「長谷川流居合兵法」となっていますし、明治時代に編纂された土佐居合も、正式な流名は「無双直伝英信流居合兵法」でした。
江戸時代の無外流兵法については、まだ不明なことが多く、我々は「無外流居合兵法」なるものを完全に解明してはおりません。ただし、近世以降の剣術流派に併伝する「外物」(そともの)と剣術との関係、という歴史的な流れの中に当てはめると、「無外流居合兵法」は辻月丹の学んだ自鏡流居合のことではなく、土佐系無外流そのものであろうと考えています。
無外流と言えば剣術流儀というのが常識ですが、都治記摩多資幸の頃に「無外流居合兵法」という呼び方が一般化していたことは注目すべきことです。
辻(都治)家のなかで、初代の土佐藩士となった都治記摩多資幸は、文化九(1812)年8月26日に江戸で亡くなりました。
都治記摩多資幸には嫡子が無く、次代は土佐藩士から養子を迎えることになります。
Back(第二回)<< 不死鳥の章メニュー >>Next(第四回)
|