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辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語  
       不死鳥の章  第四回

土佐藩では、都治家のように芸を代々世襲していく家のことを「芸家」と呼んでいました。 山内家では、四代藩主・山内豊昌の頃までに、専門化された武芸の指南家の制度が整い、これを『芸家制度』と言います。時代によって増減はあるものの、百家以上の「芸家」が存在したと言われています。また、無外流兵法は都治家を筆頭に、角田家、森下家、手島家、土方家などが「芸家」とされていました。
なお、土佐藩では無外流兵法を、剣術の中での筆頭流派としています。

無外流兵法譚さて、都治記摩多資幸の後は、三代にわたって養子が続きます。 (これは系譜上のことで、じっさいには金市郎は文左衛門の実弟です。)
都治記摩多資幸から数えて四代目の都治亀五郎定篤は、三代目の都治喜摩多茂岡(これは『喜摩多』が正しい)の実子です。そして、都治亀五郎定篤の代で明治維新を迎えることになります。
しかし、無外流の都治家は明治維新を待つことなく、慶応元年に、もはや「芸家」ではなくなりました。

ここで、幕末の土佐藩無外流の「芸家」である都治喜摩多・亀五郎父子の時代を振り返りましょう。

幕末に、土佐藩の武芸に大きな波紋を投げかけたのは、嘉永元年(1848)に藩主となった山内豊信(容堂)の存在です。
山内容堂は、藩政においては参政・吉田東洋と二人三脚で改革を進めていましたが、武芸においても改革を断行しました。まず、「芸家」を無視して、江戸藩邸に当時の名だたる武芸者を集めて他流試合をおこないます。
当時の土佐藩邸の記録を見ると、千葉栄次郎、千葉重太郎、海保帆平(北辰一刀流)、斎藤弥九郎(神道無念流)、上田馬之助(鏡新明智流)、石山孫六(小野派一刀流)、大石進(大石神影流)をはじめとした、キラ星のような剣客が土佐藩邸で他流試合をおこなっています。

幕末は、国防問題が絡んで武芸が復興した時期で、諸国往来が緩和されたため他流試合が盛んに行われました。と同時に、武芸の流派数が爆発的に増加した時期でもあります。江戸時代中期には300と言われた流派の数が、幕末には700以上に増えたそうです。

無外流兵法譚
山内容堂

山内容堂には、従来の「芸家」が伝える武芸が時勢に合わないものと映ったのでしょう。これは、試合を見学していた土佐藩士たちにも大きな影響を及ぼしたようです。そんな中に、かの坂本竜馬もいました。坂本竜馬は、同じく土佐藩士の寺田左右馬らと、すぐに斎藤弥九郎の道場に見学に訪れています。ここで、師範代の桂小五郎と出会うわけですから、歴史の巡り合わせとは不思議なものです。

さて、山内容堂は、まず安政二年(1855)2月に、従来の「芸家」に対して「他流試合解禁」の藩庁告布を通達します。 
このときの衝撃は相当なものだったようで、寺田左右馬の3月10日の日記によると、

『去る二十三日槍剣の修行他流制外となる。槍にして杉山流、剣にして無外流、他流試合を禁ずること最も甚だしかりしが、一時にこの道開け大いに愉快を覚ゆ』

と他流試合解禁を歓迎するとともに、当時の無外流は他流試合が禁止されていたこと、そして無外流一門の混乱ぶりが尋常ではなかったことが読み取れます。

その混乱ぶりについても、坂本竜馬の友人で土佐勤皇党の首領だった武市半平太(たけちはんぺいた)は、文久三年(1863)の意見書の中で、次のように記しています。

『剣術は下段と目をつけ、無外流などの者はその師家に隠し密々下段の修行など仕り候』

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市半平太像

ここで下段というのは、現在の剣道で言うと中段の構えのことです。
それまでの無外流では、上段や八相の構えが普通でしたが、幕末の竹刀剣術の影響で、剣風が一変してしまったのです。

参政・吉田東洋の藩政改革では、「身分にとらわれない能力主義」が基本方針として掲げられます。そうした流れの中で、文久二年(1862)3月20日に「芸家制度」そのものが廃止されたのです。『芸家』を継承する能力もないのに、世襲というだけで跡を継いでいる偽家元の存在が弊害を生んでいたのでした。
このとき、都治家だけでなく、すべての「芸家」がその任を解かれています。百家以上の「芸家」の中には、長谷川(英信)流居合兵法の山川久蔵幸雅、谷村亀之丞自雄、下村茂市定などの名前も確認できます。

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都治喜摩多茂岡の墓
(如来寺/東京都品川区)

吉田東洋の藩政改革は、当然ながら守旧派との対立を深めました。 本来は、下級藩士や郷士たちにとっては歓迎すべき改革なのですが、何を狂ったのか下士で構成されている土佐勤皇党は、抵抗勢力である守旧派と手を結び、4月2日に吉田東洋を暗殺してしまいます。
これで実権を握った守旧派は、6月21日に「芸家制度」の復活を通達します。これにより、都治家は「芸家」に返り咲きますが、再び改革派が実権を奪い返すと、慶応元年に「芸家制度」の再廃止となるのです。この後、二度と芸家制度が復活することはありませんでした。

都治亀五郎定篤は、文久二年(1862)3月20日の芸家制度廃止のときに馬廻役から小姓組に改編され、明治維新を小姓組として迎えたのです。



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