土佐藩では、芸事の指南家を「芸家」と呼ぶのに対し、姫路藩では「家元」という言葉を用いているのは興味深いことです。ただし、注意しなければならないのは、ここで言う「芸家」「家元」と言う言葉は、我々が現在使っている「家元」あるいは「宗家」とは意味が少々異なります。

都治記摩多資幸の墓
(如来寺/東京都品川区) |
普通、「家元」と言えば、茶や花に代表されるように、伝書や資格証書の発行権をすべて独占する芸事の総本山の機能を持っているのですが、無外流や自鏡流居合で言われる「家元」は、そうした機能すらも弟子に完全伝承している点が異なります。
これは、姫路藩の高橋家が、その後に独自の免許を発行していることを見れば明白です。
例えば尾張柳生新陰流、薩摩示現流、江戸渋川流、紀州関口流といった、代々流儀を家督相続していた場合でも同じことが言えるのです。
では、なぜ姫路藩では「家元」という紛らわしい用語を使ったのでしょうか?
それは、その流儀が免許発行権までも含めた完全伝承の武芸であっても、江戸に師範がいて、参勤交代で江戸に赴任する諸藩の武士たちを相手に指南する家の場合は、例外的に「家元」「宗家」という言葉を使う習慣があったからです。最も有名な「宗家」として、江戸系浅山一伝流の森戸家があります(後述)。
生徒の出身は日本全国にわたっても、師範家が江戸にある場合、全国的な統率が可能であったことから、こうした師範家を「家元」という言い方をしたのです。
したがって、茶や花の「家元」とは、意味が異なることを理解しなければ本質的な誤解を生じることとなります。
さて、高橋八助は、寛政七年(1795)に藩主が参勤交代のため江戸に出府するのに同行し、江戸在府の無外流「家元」・都治記摩多資幸(すけゆき)と、自鏡流居合「家元」・山村司昌茂のもとに『形(かた)の承合』のために通うことになります。この頃、都治記摩多資幸は麹町六番町、山村昌茂は深川(現在の江東区森下4丁目)に住んでいました。

都治文左衛門資信の墓
(如来寺/東京都品川区) |
高橋八助の江戸滞在は、わずか4ヶ月でしたが、寛政十一年(1799)には山村昌茂から自鏡流居合の免許を授かりました。このとき、高橋八助はすでに49歳、山村昌茂は57歳になっていました。
翌年の寛政十二年(1800)には、山村昌茂は長男の昌永に家督を譲り隠居します。 山村昌茂は隠居しましたが、74歳で亡くなるまで高橋家との交流は続きました。高橋八助の嫡男、高橋達蔵も都治記摩多、山村昌茂にそれぞれ師事し、文化七年(1810)に『無外流小太刀目録』と『自鏡流居合免許』を授かりました。そして、文化十三年(1816)に山村昌茂は亡くなりました。
高橋家の人物が、自鏡流居合の家元から免許を授かるのはここまでです。教えを受けたのが五代目・山村昌茂の晩年だったこともあり、高橋八助・達蔵父子は、六代目・山川弥平能毅(よしたけ)にも教えを受けました。
また、無外流のほうは文化十四年(1817)に都治文左衛門資信から『無外流兵法免許』を受けています。
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