土浦藩には、自鏡流居合のほかに、関口流から派生した真心流居合も伝わっています。徳川二百六十諸侯のなかでも、これほど居合が盛んな藩は、珍しいと言えましょう。

歌手の氷川きよしが唄った
『一剣』は、島田虎之助が
主人公である。島田は、土
浦藩で直心影流を教えて
いた。 |
しかし、土浦藩といえば、どうしても直心影流のイメージで見てしまいます。直心影流のイメージが強烈過ぎて自鏡流居合の影が薄くなった....というのは冗談としても、前述したような、「自鏡流居合は、六代目・山川能毅で後継者が絶えた」という説は、どこから生まれたのでしょうか?
我々が確認できた限りでは、この通説のもっとも古い記述は、中川申一著『無外流居合兵道解説』(昭和35年)と思われます。同著では、山村能毅後の自鏡流について、
「自鏡流はその後跡が絶えたゝめ無外流によって保存されることゝなったのである。」
とあります。
我々の調査では、高橋達蔵(充玄)の嫡男の八代・高橋八助(成行)が、修行の一環として江戸へ出て、自鏡流居合の「家元」山川能毅を訪問したのが、記録上では高橋家と土浦藩「家元」との交流の最後でした。天保十一年(1840)のことです。そして、その後高橋家と土浦藩の自鏡流居合「家元」との交流を確認することは出来ません。
また、高橋家に伝わる目録にも、山川能毅の後の土浦藩の「家元」にかんする記述がなかったため、中川は自鏡流居合の「本流」までも「途絶えた」と勘違いしたのでしょう。そして、中川の後継者らによって、この説が定説化したものと考ています。

自鏡流居合家元だった山村家累代の墓標
(東京都多摩市) |
じつは、土浦藩における自鏡流居合の伝統は、天保十年(1839)年に建てられた藩校「郁文館」のカリキュラムに取り入れられ、その本拠地が江戸深川から土浦に移っていたのです。天保十一年以降、江戸を訪れた高橋家の人々と、自鏡流居合の「家元」との交流が途絶えたのは、こういう経緯があったからなのです。
ここで、土浦藩最後の自鏡流居合指南役、露木亦三郎(つゆきまたさぶろう)と先代の杉村機兵衛(きへい)の生涯を追ってみましょう。
まず、杉村機兵衛は父・中太夫武竪(たけたて)の三男として寛政九年(1797)に生まれています。文化九年(1812)12 月に九代藩主・土屋彦直に御目見後、中小姓、馬廻などを経て中小姓與頭を勤めます。待遇は二十人扶持で、土浦藩では熨斗(のし)と呼ばれる下級役人の部類です。
文政九年(1826)3月2日に、「自鏡流居合免許相済候ニ付キ稽古所へ罷(まか)リ出デ世話」を命じられ、天保十二年(1841)4月4日まで郁文館での自鏡流居合指南役を勤めました。翌、天保十三年(1842)6月13日には郁文館世話役となり、自鏡流居合の師範役も続けました。
明治三年(1870)6月23日に病死しています。享年74歳でした。
いっぽうの露木亦三郎は、文化十一年(1815)に父・勝兵衛の嫡男として土浦で生まれました。文政九年 (1826)11 月に藩主・土屋彦直に御目見後、天保三年(1832)8月13日に家督を相続しています。待遇は五十石で役職は広間番ですから、杉村より格下で足軽より上の徒格(かち)という軽輩の身分です。
露木亦三郎は、居合と馬術の免許を許されています。
弘化元年(1844)12月26日 自鏡流居合免許
弘化五年(1848)2月15日 八條流馬術免許
嘉永六年(1853)12月25日〜慶應三年(1867)7月27日まで、十四年間は自鏡流居合の師範役となっています。明治23年(1890)9月29日に77歳で亡くなりました。
亦三郎の嫡男・露木虎之助は、同じく八條流馬術免許を済ませて、中小姓番として土屋家に仕えていますが、自鏡流居合の免許は取得していません。大正五年(1916)に70歳で亡くなっています。

「近世土浦史」(明治38年)の「郁文館武術」(右
32ページ)によると、土浦藩での筆頭武芸は兵学
で、以下、剣術、槍術、馬術、砲術、弓術、居合
術(左46ページ)、柔術、棒術の順となり、居合の
地位は意外と低かったことがわかる。
ところが居合の人気は高かったようで、藩士達
が学んだ武芸を「諸士年譜」でたどると、多くの
藩士が、直心影流(剣術)か自鏡流居合のどち
らかを学んでいたことが確認できる。 |
我々は、土浦藩の「諸士年譜」「土浦分限帳」を使って、土浦藩の「自鏡流居合免許」取得者のリストを作成しました。
露木亦三郎は明治23年に亡くなりましたが、それ以降に生存していた免許取得者を探し出すためです。残念ながら、これら武鑑類には藩主への初御目見得と免許取得年月日、家禄と役職履歴の記載はありますが、生死の情報はほとんど抜け落ちています。
例えば、荒木彌一兵衛(やいちひょうえ)の生涯も詳細に突き止めていますが、生年だけは不明です。ちなみに荒木は、嘉永元年(1848)3月22日に病死しています。
このように、自鏡流居合を学んだ藩士の生年と没年が判明する例は多くありません。それでも、二人の名前が確認できました。一人は、大正3年(1914)5月23日に亡くなった小出藤一郎、もう一人は、大正7年(1918)2月14日に亡くなった藤井夏造です。それ以降の生存者もいると思いますが、はっきり生死が確認できるのはこの二人だけです。
それにしても、自鏡流居合の「本家本流」を継ぐ免許取得者が大正7年まで生きていたことは、驚くべきことです。

土浦藩の藩校 『郁文館』
郁文館には、学問を学ぶ文館と
武芸を鍛錬する武館に分けられ
ていた。自鏡流居合は、武館で
教授されていた。 |
我々は無外流の母流と言われる「山口流剣術」が、辻月丹の頃に失伝したのではなく、明治維新まで富山で伝承されていることを突き止めました。富山での調査では、流祖・山口卜真斎が書いたと伝えられる「山口流剣術」の図解入りの目録をはじめ、貴重な伝書類を読むことができたことは、とてもラッキーだったと思っています。
今回の土浦での調査では、同じように自鏡流居合にかんしても多くの収穫がありました。
そのほとんどは、この章のテーマからは逸脱するため、こでは割愛せざるを得ませんが、いずれ項を改めて紹介する予定です。
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