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辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語 
 
       不死鳥の章   第九回

    〜無外流と津田一伝流〜


高橋家6代目・高橋八助充亮は、高橋家中興とも呼ぶべき人物ですが、その孫の九代目・哲夫武成も、高橋家最後の姫路藩剣術指南役という意味では、高橋家の歴史上では特筆すべき人物です。
安政4年(1857)に兄・高橋八助成行の養子となり、剣術指南役を継承した高橋哲夫武成は、本来ならば、そのまま姫路藩の剣術師範として一生を終わるはずでした。しかし、風雲急を告げる時代のほうが、彼を放ってはおきませんでした。


 黒船来航図(神奈川県立資料館所蔵)
黒船襲来は、姫路藩や無外流の高橋家にとっても大きな意味を持つことになる。

ペリー提督が率いるアメリカ太平洋艦隊が江戸湾に来航した嘉永6年(1853)、姫路藩酒井家は、江戸湾警護役を命じられます。ただでさえ疲弊している藩財政に加えて、臨時の出費が追い打ちをかける状況でした。この年に若干18才で姫路藩酒井家の藩主となったのが酒井忠顕(ただあき)です。

酒井忠顕は、藩士から給金の前借りとも言うべき上米(あげまい)を実施して借財にあてながら、江戸湾警護役の任務を全うするために藩の武芸奨励にも力を注ぎます。上米の通達を布告するときも、窮した藩士たちが武具を売ることの無いよう異例の通告を出したほどです。


安政3年(1856)には藩校『好古堂』を拡張し、武芸カリキュラムをこれまでより実践的なものに改革します。さらに、翌年3月18日には藩内での「槍・剣術の他流試合」を解禁します。土佐藩が他流試合を解禁した2年後のことです。

注目すべきは、酒井忠顕が、安政4年(1857)5月3日に幕府の講武所を視察し、当時の頭取兼剣術師範の男谷精一郎から一人の剣客を紹介されたことです。
それは久留米藩の剣術指南役で、津田一伝流という新流派を興していた津田一左衛門正之という剣客でした。


講武所跡(東京都千代田区)

『久留米市教育沿革史』や『久留米市誌』によれば、津田の祖は白水大学一教で、筑前古処山城主・秋月家に仕えています。四代目の津田庄右衛門の時代に浪人し、その後有馬氏の家臣となります。
その後、江戸在府の浅山一伝流「宗家」森戸三太夫から同流を学び、9代目の津田一左衛門教正からは江戸詰の剣術指南役となりました。以来、津田家は3代にわたって、久留米藩江戸定府の剣術指南役となります。

津田正之は、文政4年(1821)に父・教明の長男として江戸に生まれ、幼名は磯之丞と言います。ペリー艦隊が来航した嘉永6年(1853)に家職を襲いで久留米藩江戸藩邸の御側物頭兼・剣術指南役になります。

ちなみに、津田正之の頃、同役の久留米藩剣術指南役には、有名な加藤田神陰流の松崎浪四郎直之(1833-96)がいました。
松崎浪四郎は国許の指南役で、諸国廻国中の2代目斎藤弥九郎に勝利したとも言われており、このことを中山介山の『大菩薩峠』では「江戸第一が九州第一に負けた」と書かれています。 後の天覧試合では、明治天皇から「日本一」と言われたという伝説が残っています。
幕末の江戸三大道場を評した、「位の桃井、力の斎藤、技の千葉」という言葉は有名ですが、これが松崎浪四郎の名言だということは案外知られていません。


      幕末の久留米藩上屋敷(現・港区三田一丁目)
  左の築地塀が筑後久留米藩有馬家上屋敷。右の長屋塀は筑
  前秋月藩黒田家上屋敷。突き当たりの大木のある所は天祖神
  社。古川に架かる中ノ橋を背にして南の方向を撮影したもの。
  現在、有馬家の屋敷跡は東京専売病院の敷地になっている。

津田正之の「津田一伝流」は、戦国時代の浅山一伝流の流れを汲んでいましたが、酒井忠顕が講武所で知った頃は、すでに試合稽古の流儀として名をなしていました。

この少し前には、久留米藩の隣の柳川藩(福岡県柳川市)の剣術指南役・大石進種次が、江戸の名だたる剣豪を試合稽古で負かし、一大旋風になったことがありました。
このときの大石進の戦法は、『長竹刀』を使った「突き技」「胴斬り」が主体の攻撃でした。大石は、大島流槍術の師範でもあったことから、槍術の刺突技術を応用して勝を制したようです。

大石の竹刀は、5.8尺(174cm)とも言われた「お化け竹刀」だったため、「剣術を冒涜した馬鹿馬鹿しい戦法」と批判もありましたが、名だたる剣客たちが敗北したのも事実で、後に土佐藩では大石進を土佐に招聘して、「大石神影流」を藩の正式な剣術のひとつに加えたほどです。

津田正之は、大石進のような「お化け竹刀」を用いた勝ち負けのみに固執する武道を否定しました。
一方で、父親の代には3尺の袋竹刀(この流儀では『袋鞘』と呼ぶ)を用いた流儀を、3.8尺の竹割竹刀の流儀に改め、浅山一伝流を当時としてはかなり時代を先取りした流儀に洗練させていました。


久留米藩九代藩主
有馬頼徳
津田正之は、大石進ほどの旋風にはなりませんでしたが、講武所頭取・男谷精一郎は津田の考えと実力に感嘆し、久留米藩主・有馬頼徳(よりのり)にこれを伝えます。喜んだ有馬頼徳は、津田正之に一派を興すように命じました。
こうして江戸で誕生したのが「津田一伝流」です。

幕府講武所では、安政6年(1857)に竹刀の長さの限界を3.8尺に定め、これが現代の剣道の竹刀の長さに受け継がれていくのですが、そのきっかけは津田正之だったのかも知れません。

酒井忠顕は、講武所で知った津田正之を姫路藩に招聘します。 そして、姫路藩無外流の高橋哲夫武成の運命は、津田正之が来遊した安政5年(1858)を境に、大きく変わることになるのです。


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