ペリー来航の年に十八歳で姫路藩主となった酒井忠顕(ただあき)は、藩財政の立て直しや江戸湾警護といった役割を抱えていました。さらに、譜代大名筆頭の酒井家藩主として、当時の幕府が抱えていた外交・国防問題、将軍継嗣を巡る派閥争いなどにも巻き込まれていくことになります。
ここで、酒井忠顕の時代と幕府との関係を確認しておきましょう。

阿部正弘は若干25歳で老中に就任し、すでに十年の老中経験はあったものの、難局を乗り切るには力不足だった。 |
ペリー来航直後の六月二十二日に十二代将軍・徳川家慶(いえよし)が急死し、新将軍は病弱で言語不明瞭な徳川家定が内定します。当時三十五才の阿部正弘を老中首座としていた幕閣は、未曾有の国難を明らかに経験不足で弱体な体制で臨まなければなりませんでした。阿部正弘は、それまでの慣行を破り、島津斉彬ら外様大名を含めた雄藩の意見を取り入れて国論を統一しようとします。阿部正弘の戦略は成功するかに思えましたが、幕府には政治顧問的役割を担った厳然たる大きな力がありました。それが、『溜間詰』と呼ばれる諸侯です。この『溜間詰』の諸侯たちが、阿部正弘ら幕閣に立ち塞がったのです。
『溜間』とは、江戸城内の大名の殿席(控え室)のひとつで、御三家(大廊下上)、加賀前田家(大廊下下)に次ぐ家格の諸侯の部屋です。『大廊下』を殿席とする諸侯は政治に関与できないのに対し、『溜間』の諸侯は、政治顧問として城内に『詰』めていることを義務づけられていました。『溜間』は、会津松平家、高松松平家、彦根藩主・井伊掃部頭家(かもんのかみけ)、姫路藩主・酒井雅楽頭家、老中経験者の一部らによって構成されています。
阿部正弘は、『溜間詰』諸侯の懐柔のため、すでに引退して『溜間』に詰めていた元老中の堀田正睦(まさよし)を再び老中に復帰させます。

十三代将軍・徳川家定 |
この頃の『溜間』の首座は彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)、上座が酒井忠顕でした。結果的には、堀田正睦による『溜間』懐柔策は失敗し、その最中に阿部正弘は急死してしまいます。堀田は、島津斉彬の養女・敬子(すみこ/後の天璋院篤姫)を
将軍家定の御台所としたり、朝廷を懐柔して勅許を得ようと工作を進めますが、すべて失敗に終わります。万策尽きた幕閣は、越前福井藩主・松平慶永(春嶽)を大老に推奨して
時局を乗り切ろうとします。
しかし、これを上申された将軍・徳川家定は、次のように上意を述べて許可しませんでした。
『家柄と申し、人物に候はば彦根を差し置き、越前に仰せ付けらるべき筋これなく、掃部頭(かもんのかみ)に仰せ付けらるべし』
『(江戸初期の例外を除けば)大老になれる家柄は井伊家と酒井家しかなく、このとき酒井忠顕は年若く傍流から養子となって家督を継いだために大老候補からは外れるとしても、井伊直弼がいるではないか。井伊直弼は人物も優れているので、彦根(井伊直弼)を差し置いて越前(松平慶永)を大老に命じる筋はない。直弼に大老を命じるべきである...』
ふだんは言語不明瞭な徳川家定が、このときはっきりと言い渡したのです。
余談ですが、徳川家定の人物評について、松平慶永のように『暗愚で凡庸』とこき下ろす者の主張が通説となっていますが、『病弱ではあるが聡明』と言う者も少なくありません。家定に面会したアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは、『よく通る声だった』『普通の思考力の持ち主だった』と記録に残しているほどです。

将軍家定に謁見するハリス
中央で直立しているのがハリス。向こうの黒い影が徳川家定。手塚治虫の代表作「陽だまりの樹」では、言葉を交わせない徳川家定の代わりに黒子がハリスに声をかけている。 |
後の十四代将軍の頃に、松平慶永が幕政に参画するとき、大老ではなく『政治総裁職』という意味不明な役職に就任しますが、これは越前松平家が大老にはなれない家柄だからなのです。この一件を見る限りは、利害の当事者である松平慶永の主張を鵜呑みにすることはできないようです。
こうして、安政五年(1858)に井伊直弼が大老に就任します。
この頃の幕府には、幕閣と溜間詰諸侯の対立のほかに、いくつかの火種を抱えていました。ひとつは、病弱の将軍徳川家定の継嗣問題で、紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す『南紀派』と一橋慶喜を推す『一橋派』の対立です。
もうひとつは、外交政策を巡る攘夷派と開国派の対立です。

井伊直弼像
井伊直弼によって開港した横浜港を臨む紅葉坂には、横浜で最大の神社・伊勢山皇大神宮や県立図書館、県立音楽堂、県立能楽堂、プラネタリウムなどがある。その一画の掃部山(かもんやま)は、井伊掃部頭直弼を記念した場所である。写真は、掃部山から横浜ランドマークタワーを臨む井伊直弼像。
(掃部山/神奈川県横浜市) |
開国派で南紀派の井伊直弼の推す徳川慶福の将軍就任を阻むため、一橋派は開国を嫌悪していた孝明天皇を抱き込み、水戸藩に幕政改革の密勅を下させることに成功します。また、朝廷から徳川慶福に新将軍の宣下が出ないように、京都で勤皇の志士を暗躍させました。一方の井伊直弼は、酒井忠顕に孝明天皇の懐柔を、酒井家の分家である若狭小浜藩主・酒井忠義を京都所司代に任命して尊王攘夷派志士たちの弾圧を開始します。安政の大獄です。
この政争は、結果的に南紀派の勝利に終わり、十四代将軍・徳川家茂(慶福)が誕生しました。酒井忠顕(ただあき)は大老格となり、新将軍家茂の名代として安政六年一月二十五日に参内し、孝明天皇に将軍宣下の礼を述べています。
しかし、翌万延元年(1860)三月三日、井伊直弼は下城途中の桜田門外で水戸・薩摩浪士たちによって討たれてしまいました。享年四十六歳でした。
さらに、同年十一月二十六日、井伊直弼の後を追うように、すでに大老格となっていた酒井忠顕が、若干二十五歳で死去してしまいます。
酒井忠顕が、藩士の他流試合を奨励し藩校の改革を急いだのも、試合稽古で名を上げていた津田一伝流に注目したのも、酒井家が置かれたこうした状況の中で、必然的な流れだったことを理解しなければなりません。
これまで、剣術指南役の高橋家に求められていたのは、無外流と自鏡流居合の技の継承でした。しかし、この頃から、より実践的で、即戦力としての武芸への脱皮が要求されていたのです。
Back(第九回)<< 不死鳥の章メニュー >>Next(第十一回)
|