MENU 〜 無外流兵法譚
はじめに 〜 無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
武道浪漫 〜 無外流兵法譚
お問い合わせ 〜 無外流兵法譚
TOPページ 〜 無外流兵法譚
無外流真伝剣法訣 〜 無外流兵法譚
無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語  

       不死鳥の章 第十ー回

  〜 津田一伝流始末記 〜


高橋哲夫武成は、天保元年(1830)に達蔵充玄の第五子として姫路に生まれています。安政四年六月(1857)、28歳のときに兄の八助成行から高橋家の家督と剣術指南役を継承しました。翌安政五年に、津田一左衛門正之が姫路に来遊し、さらに安政六年五月二十六日には久留米で津田一伝流に入門します。

無外流兵法譚
浅山一伝流から津田一伝流まで
浅山一伝流は、もとは剣・柔を中心に小太刀・槍・鎌・杖・棒・手裏剣・捕手・毒害を加えていた総合武術でした。浅山一伝流の系譜のなかでもっとも有名なのは、代々江戸で宗家として君臨した森戸三太夫の系です。森戸三太夫は江戸にいて、参勤交代で出府してきた全国の門弟を統率していました。森戸三太夫金制が目黒不動尊に掲げた大額には、全国の門弟の名前がビッシリと書かれています。
また、諸流を省いて不伝流居合刀術を編み出した伊藤長太夫次春の系統もよく知られています。この系統は、正徳年間に出雲松江藩主・松平直政に採用されて『御流儀』となります。松江藩と言えば、風流人として知られる藩主・松平治郷(不昧)が有名で、治郷は不伝流居合を研究して伝書まで残したほど熱中しました。また、安政二年に建てられた浅山一伝斎の巨大な五輪塔が、領地の天倫山の中腹に現在も残っています。
無外流兵法譚
 森戸三太夫金制の時代の浅山一
 伝流の竹刀と防具。この流儀では、
 三尺の鍔付き袋竹刀を用い、『袋
 鞘』(ふくろさや)と呼んでいた。

津田正之は、明治5年5月、指南役制度が廃止となったときに、「我が剣、終わる」と書き残し伝書類の一切を焼き捨てて自刃して果てました。享年52才でした。

その息子の津田左馬介教脩は、明治3年には父の跡を継いで剣術指南役となっていましたが、指南役廃止後は陸軍兵学校に入学します。若い頃から「津田の小天狗」と言われ、西南戦争、日清・日露戦争に従軍し、「真剣勝負では天下無敵」と言われるほどでした。郷土の久留米には、日清戦争の盤竜山砲台攻略戦中、愛刀備前康光を振るい、敵を一千人斬り殺した伝説が伝わっています。
その後、陸軍戸山学校などで教官をつとめ、従五位勲四等功五級に叙せられています。戸山学校では竹刀剣術を教えていましたが、竹刀剣術で有効な「胴斬り」が、実戦ではまったく役に立たなかった経験から、生徒には「胴斬り」を禁止したそうです。


さて、安政五年、招聘された津田正之と姫路藩の精鋭剣客たちが、十本勝負の試合に挑みます。
しかし、姫路藩側はことごとく敗れてしまいます。津田正之が使用した竹刀を姫路藩の記録では『長竹刀』と表現していることから、津田の戦法は、おそらく竹刀の長さを利用した「突き技」が主体だったのではないかと推測できます。『お化け竹刀』でなくとも、3.8尺は当時としては『長竹刀』だったのです。

どのような勝負であったにしろ、惨敗した姫路藩に与えた影響は大きかったようです。土佐藩が「大石神影流」を採用したように、姫路藩も「津田一伝流」を藩の剣術流儀として採用する方針を決めました。 しかし、姫路藩は津田正之を召し抱えるのではなく、高橋哲夫武成に久留米へ行って津田一伝流を学んでくるよう命じたのです。
こうして、高橋哲夫武成は、甥の高田亥之蔵(姉の息子)を伴い、久留米へ「津田一伝流」の修行に向かったのでした。

高橋武成が入門した頃には、津田正之は江戸と久留米の道場の指南役を兼ねており、藩主の参勤交代に同伴して江戸と国許を往来していました。当時の津田正之の道場は、かなり流行っていたらしく、高橋のような他国からの留学組も含めると、門弟の数は200人を越えていました。
津田道場での八ヶ月にわたる修行の後、高橋武成は安政七年二月から九州各地を武者修行で廻国しました。このとき立ち合った主な流派だけを見ても、新陰流、一刀流、円明流、心形刀流、神道無念流、大石心影流、浅山一伝流などを確認できます。
さらに久留米に戻り一年半の修行を続け、津田道場では師範代まで登り詰めています。この師範代の時代には、師範に代わって全国から訪れる剣客との立ち会いを一手に引き受けました。前に挙げた七流派以外にも、北辰一刀流、鏡心明智流、直心影流、唯心一刀流、と言った有名流派から無名流派まで、さらに槍術家や柔術家とも立ち合っています。
そして、文久元年六月、「津田一伝流」の免許を携えて姫路へ帰藩します。

姫路に戻った高橋哲夫武成は、藩校の「好古堂」で無外流兵法と自鏡流居合を教え、また自宅道場では併せて津田一伝流剣術の指南を始めました。この頃の姫路藩主は酒井忠顕を継いだ酒井忠績(ただしげ)で、後に江戸幕府最後の大老となる人物です。文久元年九月、酒井忠績に無外流兵法を指南した高橋哲夫武成は、江戸へ出て更に修行を進めることを申し出て許可されます。
無外流兵法譚
左腕を失いながらも奮迅する伊庭八郎
(月岡芳年・画)
こうして、姫路に戻ってから一年後の文久二年五月には、早くも江戸に出て、心形刀流八代目の伊庭軍兵衛秀業の長男である伊庭八郎らと立ち合っています。また、同月には講武所の男谷精一郎を訪ね、門弟の榊原健吉らとも立ち合いました。
伊庭八郎は、池波正太郎の『幕末遊撃隊』で有名になった剣士で、「隻腕の剣士」は彼の代名詞です。明治2年に箱館戦争で戦死しました。享年27歳でした。一方の榊原健吉は、男谷精一郎から直心影流を継いだ人物で、「最後の剣客」と言われています。また、明治20年に明治天皇の前で「兜割」(かぶとわり)を披露したことでも知られています。

無外流兵法譚
榊原健吉
伊庭八郎や榊原健吉と立ち合った文久二年五月は、姫路藩主・酒井忠績が京都所司代の代理に任命されたこともあり、高橋武成は藩主警護のため急遽京都に向かいます。
京都所司代は譜代大名が任じられる役職で、老中にも通じる出世コースですが、もはやこの頃の京都は並の譜代大名では押さえることが出来ませんでした。そこで酒井雅楽頭家の当主が担ぎ出されたのですが、さすがに酒井家当主に京都所司代のような低い役職は不釣り合いなため、所司代は空席のまま酒井忠績を代理としたのです。
酒井忠績は、四ヶ月間の所司代代理を勤めると、即座に老中首座、さらに大老に任命されることになります。酒井忠績の去った京都では、やっと新所司代が就任しますが、やはり一介の譜代大名程度では手がつけられない状況でした。幕府は、京都所司代の上部組織として「京都守護職」を新設し、酒井忠績と同じ溜間詰から会津藩主・松平容保(かたもり)を派遣しました。

こうした中、高橋武成は、無外流兵法・自鏡流居合・津田一伝流剣術の指南役として、江戸と姫路の藩士への教授、国事のために東西を奔走した藩主の警護役、他流の剣客達との立ち合いと、一人で何役もこなす活躍を見せています。
やがて、明治維新となり廃藩置県で指南役を解任され、自宅道場で教授を続けますが、明治9年3月23日に亡くなりました。享年47歳でした。



Back(第十回)<< 不死鳥の章メニュー >>Next(第十二回)
 

トピックス 近世史研究会 〜 無外流兵法譚
2010.03.20  無外流創始330周年記念
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 噴火の章」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
2008.11.15
史談往来 「宗偏流と石州流 辻月丹と茶湯」 アップ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
2008.06.23
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 青雲の章」 リニューアル  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
2008.02.01
武道浪漫 「山口流剣術とその時代」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9
2007.09.16
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖・辻月丹物語 不死鳥の章」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
2007.05.21
史談往来 「無外流と忠臣蔵 元禄赤穂事件外伝」 アップ 1 2 3 4
2007.05.01
史談往来 「吸江寺をさがせ! 無外流が生まれた風景」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.04.08
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖・辻月丹物語 青雲の章」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.03.10
史談往来 「プロジェクトエックス 将軍謁見事件の真相」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.03.01
史談往来 「無外流と文殊菩薩」 試験アップ  1 2 3
2007.02.25
無外流兵法譚 試験アップ開始    
 COPYRIGHT(C) Modern History Workshop.

無外流兵法譚