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辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語  

       不死鳥の章 第十二回

   〜  赳太郎と善三郎  〜


高橋赳太郎(きゅうたろう)高運は、安政六年(1859)7月に高橋哲夫武成の長子として姫路に生まれました。早くから、父哲夫武成から無外流兵法、自鏡流居合、津田一伝流剣術を学び、姫路藩の藩校『好古堂』では、石川仙次郎から堤宝山流柔術を、五十嵐鉄馬には大坪流馬術なども学んでいました。

無外流兵法譚
『剣道家写真名鑑』(大正13年)より
明治維新によって、高橋哲夫武成は剣術指南役を解任されましたが、自宅道場では指南を続けます。しかし、入門者が集まりません。武士階級自体が消滅し、廃刀令や撃剣禁止令などが布告され、家芸を捨てる剣術家が続出した時代でした。
それでも高橋哲夫武成は、日本古来の文化でもあり家芸でもある、無外流兵法・自鏡流居合・津田一伝流剣術を、自分の代で消滅させることは耐え難かったのでしょう。息子の赳太郎には、真冬に冷水を浴びせるような厳しい稽古を課したと伝えられています。
こうした修行の末、明治9年に18歳になった高橋赳太郎は、父から無外流兵法と津田一伝流剣術の免許を許されたのです。

この年の3月29日には、高橋哲夫武成が47歳で亡くなります。父を亡くした18歳の赳太郎は、叔父で先代の高橋八助成行についてさらに修行を進め、明治11年には無外流兵法の奥伝を授かります。また、津田一伝流の試合稽古でも腕を上げ、この頃の高橋赳太郎は、すでに播磨・中国あたりでは敵なしと言われるほどになっていました。
こうなると、赳太郎としては父・武成と同じく日本中を剣術修行して旅したいと思ったことでしょう。

しかし、高橋赳太郎が無外流兵法の奥義を許された時代は、佐賀の乱(明治7年)や神風連の乱(明治9年)など、明治政府に不満をもった士族たちが、各地で反乱を起こしていた時代でもありました。剣術修行のための廻国など許されることではなかったのです。
そこで、一計を案じた高橋は、『曲戯業』という偽の営業届けを政府に提出し、25銭の興業税を納めて、中国地方から奈良にかけて剣術修行の旅に出たこともありました。
無外流兵法譚
            当時の撃剣興業の錦絵

一方で、明治の剣術復興の息吹は、まず警察から始まろうとしていました。

戊辰戦争は、近代的な銃や大砲と西洋式集団戦法の前に、刀槍が太刀打ちできないことを印象づけ、明治政府は警察での剣術を禁止していました。
ところが西南戦争において、西郷軍のゲリラ抜刀戦術に、官軍の西洋戦術は劣勢を強いられてしまいます。これに対抗するため、政府は腕に覚えのある剣客で編成された『抜刀隊』を警視庁から派遣し、その活躍で戦局が変わり、ついには戦いの主導権を取り戻したのです。
こうして、文明開化一辺倒だった時流にも変化が生じ、尚武の精神が説かれるようになります。

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明治初期の撃剣稽古の様子
まず、明治12年2月(1879)、警視庁は巡査に剣術を学ばせるため、三人の剣客を『撃剣世話掛』として採用します。鏡心明智流の上田馬之助、梶川義正、逸見宗助(へんみそうすけ)です。このうち、逸見宗助は元佐倉藩(千葉県佐倉市)の剣術指南役で立身流(たつみりゅう)を家伝としていた人物です。
鏡心明智流が師範の席を独占したのは、いくつかの理由があると言われています。まず、桃井春蔵が幕末から勤皇派で功績があったこと。そして、明治12年の時点では、幕末の江戸三大道場の後継者で剣術に携わっていたのが鏡心明智流の桃井春蔵(直正)のみで、北辰一刀流の千葉家は途絶え、神道無念流の斎藤家はすでに剣を捨てていたこと。さらに、鏡心明智流が、古流四大流儀の長所を集約して創始された流儀だったため、他流派の剣客が学びやすかったことなどがあります。
警視庁は、桃井春蔵と直心影流の榊原健吉に相談し、上田、梶川、小野派一刀流の高橋道太郎(幕末三舟のうちの高橋泥舟の嫡男)に決めますが、高橋の師・山岡鉄舟が許可しなかったため、逸見宗助を加えました。

逸見宗助は、後には明治を代表する剣客となり、とくに松崎浪四郎と対戦した御前試合は、近代剣術史に残る名勝負と言われています。しかし、明治12年にはまだ無名な一剣客に過ぎず、おそらく鏡心明智流のネームバリューがなければ(つまり立身流の達人という肩書きだけでは)、三人の中には選ばれなかったでしょう。
こうした偶然にも恵まれた逸見宗助が警視庁の撃剣世話掛になったことが、後に無外流居合にも少なからず影響を与えることになります。


廻国修行から戻った高橋赳太郎は、剣術復興の流れに乗るかのように、兵庫県七等巡査、大阪府四等巡査、神戸警察署、兵庫県巡査教習所の撃剣世話掛を歴任します。
明治16年(1883)の大阪府警時代には、高知県から巡業に来ていた撃剣興業の一団と試合をすることになります。鏡心明智流の馬淵桃太郎に率いられた一座で、高橋赳太郎の対戦相手は、土佐無外流土方派七代目の川崎善三郎重徳でした。

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『剣道家写真名鑑』(大正13年)より
同じ無外流で、年齢も腕もほぼ互角の二人ですから、勝負はなかなか付かず、やがて剣を捨てて組み討ちになります。結局二人が意識を取り戻したときには、氷枕で冷やされて並んで寝かされていました。

そして明治19年(1886)、高橋赳太郎は警視庁撃剣世話掛の採用試験を受けるために上京します(実際に採用試験を受けるのは翌年)。
この年、山岡鉄舟の春風館道場でも門人相手に試合稽古をしています。春風館の稽古は「立切稽古」とも呼ばれ、朝から晩まで起きている間はほとんど竹刀を握っていなければならず、かつ座ることは許されないという厳しさで、二日も通える入門者はほとんどいないことで有名でした。さすがの赳太郎も血尿を出したそうですが、この稽古を七日間も続けたことが認められて、山岡鉄舟が直々に英盟録に署名をしたそうです。

高橋と前後して、明治19年には川崎善三郎も警視庁に採用されます。
さらに同年、秩父出身の中西派(小野派)一刀流の高野佐三郎(すけさぶろう)が採用されました。後に、警視庁撃剣世話掛の「三傑」「三郎」と呼ばれる役者が、ここに揃ったのです。

なお、土佐藩の国許の無外流の歴史や、高橋や川崎の活躍エピソードについては、また項目を改めて取り上げたいと思います。


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