|
|
 |
 |
 |
辻月丹はここにいる
無外流祖・辻月丹物語
不死鳥の章 第十三回 |

無外流居合兵法「鳥の構え」を演武する
高橋赳太郎高運(1859-1940) |
高橋赳太郎(きゅうたろう)高運らが警視庁に採用された明治20年(1887)頃には、すでに全国の警察署や屯所で盛んに撃剣稽古が行われており、その総本山である警視庁撃剣世話掛は日本中の剣士の憧れとなっていました。高橋らは、相当な狭き門を勝ち抜いたのでしょう。
そして、前年の明治19年には日本初の制定剣術形とも言える『警視庁流形』が開始されます。それは、当時の斯道の達人たちによって一本ずつ持ち寄られた形を組み合わせた物で、剣術形十本、居合形五本より構成されていました。
山田次朗吉の「日本剣道史」によれば、
「逸見宗助、得能関四郎、上田馬之助、真貝忠篤、松崎浪四郎らの諸人をして、相謀って各々の得意とする術を提供せしめ、取捨折衷して、”警視庁流”というものを創設した。」
とあります。
ここで、警視庁流形居合五本を紹介します。
| 第一 |
前腰 |
正面 |
浅山一伝流 |
| 第二 |
夢想返 |
正面ヨリ後 |
神道無念流 |
| 第三 |
廻リ掛 |
正面ヨリ左 |
田宮流 |
| 第四 |
右ノ敵 |
正面ヨリ右 |
鏡心明智流 |
| 第五 |
四方 |
正面ヨリ左右 |
立身流 |
田宮流や浅山一伝流の居合は有名ですが、他の剣術三流派も居合を併伝していました。
神道無念流には、『神道無念流立居合』という立技のみの十二本が併伝されています。同流の目録には、立居合は流祖・福井兵右衛門嘉平の創始とあり、母流の一圓流からの継承ではないそうです。

井ノ口松之助著「兵法要務武道図解秘訣」(明治23年)より立身流居合之図 |
四本目の「右ノ敵」は、鏡心明智流の母流である戸田流から受け継いだ秘太刀です。
意外なのは、マイナー流派とも言うべき立身流から一本が加わっていることです。それもトリとも言うべき五本目です。
これは、明らかに逸見宗助によるものです。
なお、これらは出身流派そのままの技が採用されたわけではなく、警視庁流形に制定される時点で、大きく動作の改変が行われています。 高橋赳太郎ら明治19年、20年採用組は、この制定形を学んだまさにプロパーとも言うべき年代で、徹底的に稽古したのです。
高橋赳太郎は高輪署、川崎善三郎は和泉橋署、高野佐三郎は元町署の世話掛となり、午前中の署内での稽古が終わると午後は合同稽古、あるいは全国から挑んでくる腕自慢との試合に駆り出されるといった日々を過ごします。
この頃の警視庁剣道の荒稽古は有名で、一昼夜の立切稽古もありました。朝から稽古を初めて、翌朝の一番鶏が鳴くまで稽古をするのです。
伝記「高野佐三郎」には、高野がこの頃の稽古の様子を述懐する箇所があります。
「とにかく、われわれ三人は最後まで我慢し通して、えらい評判になりました。小便は真っ赤な血のような色が出ます。それから一週間くらいは、元の身体に回復しません。その頃、一番辛い修行でした。」
山岡鉄舟の「春風館」での立切稽古にも耐えてきた高野佐三郎をして、「一番辛い修行」と言わしめた荒稽古は、想像を絶するものだったのでしょう。
川崎善三郎はこの頃の稽古を、
「便所に入ってしゃがむと、もう立ち上がることが出来ない。天井から縄を吊って置き、これにすがって用を足す始末であった。」
と後年述懐しています。
こうした稽古で磨かれた三人の腕はますます冴え、警視庁世話掛を代表する剣士になります。俗に言われる、「三郎」「三傑」の名は、この頃に呼ばれたのです。
明治28年、広島大本営で開催された明治天皇の天覧試合には高橋赳太郎が出場し、京都府警の井沢守正を2対1で破り、大正13年の皇太子(後の昭和天皇)台覧試合では水戸の門奈正(もんなただし)と引き分けるなど、大きな試合では剣士として実績を残し、また昭和4年の御大礼記念武道大会では審判員としても参加しました。
こうして警視庁によって復興された剣術は、「富国強兵」のスローガンとともに学校剣道へと波及し、やがて剣道の総本山とも言うべき大日本武徳会の設立へとつながることになります。
ちなみに、初期の大日本武徳会では、まだ剣術家に対して「範士」「教士」等の称号は誕生しておらず、剣術家の最高の称号は「精錬証」が唯一のものでした。無外流の高橋赳太郎と小野派一刀流の高野佐三郎は、明治29年10月に揃って「精錬証」を授与されています。この当時の武徳会の剣術会員が一万二千人で、「精錬証」の取得者はわずか30人でしたから、高橋は文字通り日本最高の剣客となっていたのです。
Back(第十二回)<< 不死鳥の章メニュー >>Next(第十四回)
|
|
 |
|
|
| COPYRIGHT(C) Modern History Workshop. |