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無外流兵法譚
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宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
  
                第三回

辻月丹の無外流剣術に入門した50人以上の大小名のなかで、とくに熱心に無外流を学んだのが譜代大名筆頭の酒井雅楽頭家(うたのかみけ)、外様の雄・仙台藩伊達家、土佐藩山内家、武家礼法を継承し京都所司代や老中も勤めた三河吉田藩小笠原家の各藩主だったと言われています。
酒井家と山内家では、辻月丹の子孫やその弟子が剣術指南役として幕末まで仕えることになりますし、伊達家では藩主の親類たちもこぞって入門しています。

酒井家や伊達家には江戸初期から石州流茶道が伝わっていますから、辻月丹が石州流と出会っていたことは間違いないでしょう。辻月丹が茶道にどの程度の関心を持っていたかは不明ですが、藩邸に招かれたときの最低限のマナーとしての茶席の心得はあったはずです。


    山田宗偏画像(明願寺蔵)
   東本願寺末寺の長徳寺の住
   職の子として生まれ、千宗旦
   に学んで奥義を究めた。
   宗旦の推挙で吉田藩小笠原
   家の茶頭となり、宗偏の子孫
   は代々小笠原家の茶頭を勤
   めた。
そしてもうひとつ、辻月丹が間違いなく体験した茶道流派があります。三河吉田藩の小笠原家に伝わる宗偏流(そうへんりゅう)です。

宗偏流は、山田宗偏(寛永4年(1627)〜宝永5年(1708))によって創始された茶道流派で、千利休の侘び茶をもっとも正しく継承した流儀と言われています。山田宗偏は三河吉田藩の茶頭として、40年以上も小笠原忠知(ただとも)、長矩(ながのり)、長祐(ながすけ)、長重(ながしげ)の四代の藩主に仕えていたため、辻月丹がこの「利休正伝」の茶湯と出会っていたのは間違いありません。
もちろん、辻月丹が山田宗偏に会ったかまではわかりませんが、この二人は京都から江戸に来たことや、僧籍にあったことなど、偶然ながらも共通点が多いのは面白いことです。


ここでは、山田宗偏の話の前に、まずはその師匠である千宗旦(そうたん)に注目してみましょう。


     藪内軒仲(藪内家蔵)
   天文五年(1536)〜寛永4年
   (1627)。千利休に学んだ後、
   古田織部の妹と結婚した。
ここまで、古田織部、小堀遠州、片桐石州といった武家茶道の系譜を紹介しましたが、もちろん当時の茶道文化はこれだけではありませんでした。京都の宮廷茶道に大きな影響を与えた金森宗和(かなもりそうわ)の流れもありますし、後に本願寺の茶と結びつく藪内剣仲(やぶうちけんちゅう)の流れも無視できません。
なかでも、千利休の子孫たちが伝える三千家の茶湯は別格で、「京の上流」と称され、京都を代表する流派となっていきます。

千利休が切腹したとき、孫の千宗旦は十四歳で大徳寺の蔵王(ぞうす)という位の僧侶だったと伝えられています。宗旦の父は、利休の後妻の連れ子だった小庵(しょうあん)とされていますが、利休の実子・道安(どうあん)の子だと言う説もあり、また利休の娘と小庵の間に生まれた子だとも言われており、利休との血のつながりについては謎に包まれています。ただ、当時から千家の正統であると見られていたことは間違いないようです。

千宗旦は、「乞食宗旦」とも呼ばれ、生涯を貧困のなかに身を置いた人でした。
今日では、千宗旦の生きざまを「清貧」と形容するようですが、ドイツ文学者の中野孝次の、「清貧とは、自らの意思と行動によって作り出した簡素な生活である」という有名な言葉に従えば、千宗旦は清貧と対極の茶人でした。千宗旦が「孤高の侘び茶」を貫くために、多くの大名からの仕官の誘いを固辞したように伝えられていますが、実際は自ら貧困を選択したわけではなく、就職が成功せずに結果的に貧乏だったというのが本当のようです。自ら貧困を望んでいたわけではありません。

千宗旦が生涯無職で生きなければならなかった原因は、ひとつは当時の時代背景、もうひとつは宗旦自身にありました。


        千宗旦画像(部分)
    
千家三代目。小庵の子とされ、三千
    家の祖となる。元伯宗旦と号し、利休
    の侘び茶を徹底的に深化した。
千宗旦が17歳頃に、取り潰された千家の再興が許されます。しかし、再興できたからすぐに大名たちから三顧の礼で迎えられるという状況ではありませんでした。
徳川時代になっても、大名としては、かつての反逆者である千利休の孫を雇用するには躊躇せざるを得なかったのです。また、千家の茶はすでに時代遅れで、将軍が学ぶ遠州流や石州流に擦り寄った方が大名たちの処世術にも叶っていました。たとえば伊達家では、伊達政宗の頃は千利休、古田織部に師事し、その後に遠州流、石州流と、当時の為政者の好みに合わせて茶道流派を変えていく身の軽さは、多くの大名に共通した処世術だったのです。とくに江戸幕府創生期は、大名の改易が盛んだった時代で、大名たちにとっては些細な落ち度も許されない戦々恐々とした頃でした。そんな時代に、遠州流や石州流を避けて、千家の茶湯を学ぶことなど考えられなかったはずです。

もうひとつ、時代背景について言えば、紫衣(しえ)事件の影響で、千宗旦が頼りにしていた大徳寺の玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)や沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが罪人とされていたため、就職の斡旋を依頼するのが簡単ではなかったという不幸もありました。

紫衣事件とは、幕府の宗教統制の強化の末に起きた事件で、天皇が大徳寺と妙心寺の僧侶に勅賜していた紫衣を与える権利を幕府が取り上げ、それに抗議した玉室宗珀や沢庵宗彭が処罰された一連の出来事です。この事件の結果、後水尾天皇は退位することになります。




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