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宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
  
                第六回


      山田宗偏画像(山田家所蔵)
    現在、茶道宗偏流の本部は鎌倉市浄
    明寺にある。浄明寺がある金沢街道
    は筆者の散歩コースなのだが、今回
    の記事の企画は、酒井忠挙公研究の
    ために浄明寺を訪れたときの思いつ
    きから出発している。

 
茶道宗偏流の開祖として知られる山田宗偏(1627〜1708)は、東本願寺末の長徳寺明覚の息子として生まれ、五世明覚を継ぎました。17歳頃に還俗して千宗旦の門に入り、利休正伝の茶湯の奥義を究めた人物です。

明暦元年(1655)、宗偏29歳のときには師の推挙で三河吉田藩(愛知県豊橋市)小笠原忠知の茶頭となり、また宗旦は自分の名代であることの証として、「不審庵」と「今日庵」の庵号を使うことを許し、さらに利休遺偈からとった「力囲斉」の道号も与えています。この事実だけでも、山田宗偏が宗旦にとっていかに特別な弟子だったかが理解できます。

以後、三河吉田に居を移し、小笠原長矩(ながのり)、長祐(ながひろ)、長重(ながしげ)と、四代の藩主に42年以上仕えました。小笠原家が武蔵岩槻に転封になるときに、茶頭の地位を二世山田宗引に譲って、宗偏自身は江戸へ出ます。
元禄11年(1698)年、71歳のことです。

山田宗偏がこのとき、京都に戻らず江戸へ出たのは、成熟した京都ではなく新興著しい江戸で、もっと庶民に利休の侘び茶の真髄を広めたいという希望があったといわれています。それにしても、当時の71歳と言えば、現在と異なり老齢の域をはるかに越えた年齢でだったはずで、それはチャレンジ精神などと言う軽いものではなく、我々にはうかがい知ることのできない決意があったのでしょう。ただただ、恐れ入るばかりです。

江戸では本所二丁目(現在の墨田区緑一丁目付近)に暮らしたと言われ、すぐ近くは本所松坂町の吉良上野介邸でした。山田宗偏は、しばしば吉良上野介邸に茶匠として招かれています。
吉良と山田宗偏を結びつけたのは、小笠原家長重だと考えられます。長重は京都所司代として京都の滞在が長く、また幕府と朝廷の間の儀礼を司る高家肝煎の吉良上野介とは旧知の仲だったのです。
さらに、赤穂浪士のひとりである大高源吾が山田宗偏の弟子だったこともあり、毎年12月14日には、全国の宗偏流で吉良上野介と赤穂浪士を偲んだ「義士茶会」が催されまています。

     義士引揚之図(部分)

   伝承では、潮田又之丞の槍先
   に桂籠を下げさせ、吉良の首に
   見立てて泉岳寺まで引き上げた
   という。謙信公以来の武門の上
   杉家が、必ず首を取り返しに来
   ると信じていたのである。
鎌倉浄明寺にある11世家元の道場では、運の良い人には、討ち入りの夜の茶会で使われた「桂川の花籠」が披露されるかも知れません。通称「桂籠」と呼ばれる花入れで、浪士が泉岳寺に向かうときに、この花入れを布で包んで吉良の首に見立てて凱旋し、用心のために本物の首は別に運んだという言い伝えがあるものです。
なお、山田宗偏と赤穂浪士との関係を、「茶道忠臣蔵」としてこの後のページで検証しております。

三河吉田で茶匠だった頃、家中の津田六郎兵衛を茶事の亭主にして宗偏が口述し、山中七郎右衛門が筆記するという形式で、一冊の本を書き上げています。これは10年後の元禄3年(1609)に千利休百回忌に合わせて出版されました。この本こそ、我が国において初めて出版された侘び茶の解説本となる「茶道便蒙抄」(さどうべんもうしょう)です。宗偏がこの本を出版した意図は、激増する茶道人口に対応するには従来の教え方では限界があると考え、テキストの必要性を感じていたという実用面もあったでしょうが、山田宗偏が利休回帰を宣言したという面もあるようです。
山田宗偏の茶風は、いわゆる「宗偏好み」として残されている道具類から推察すると、千宗旦の茶風を継承しながらも宗旦よりもさらに「侘び」を追求した、まるで千利休の茶風を目指していたのではないかと考えてしまうほど徹底した「極侘び」なのです。

しかし、過去に回帰しただけではありませんでした。
この時代、茶匠・茶頭と呼ばれた人間が数百人は存在していたなかで、山田宗偏がひときわ大きな金字塔とされるのは、ひとつの時代を変えて新しい時代を創ったからに他なりません。三千家の祖たちが本らしい本を書かなかったのに対し、山田宗偏は利休の茶を広く世間に知ってもらい、出版というメディアを利用することで、新時代の要求に応えたのです。
また、徹底的に無駄をそぎ落として「型」にこだわる姿勢を貫いたのも山田宗偏からと言われています。

「茶道便蒙抄」が出版された翌元禄3年(1690)には「茶道要録」が、元禄15年(1702)には「利休茶道具図絵」が出版されました。
なお、「茶道要録」には、徳川光圀が序文を寄せています。この序文を光圀に依頼したのは、宗偏の高弟で後に「四方庵流学」の名を譲られた、旗本の菅沼定実と言われています。


              山田宗偏の三部作
     右から「茶道便蒙抄」「茶道要録」「利休茶道具図鑑」。それまで
     の華美に走りがちな茶風とは一線を画す、無駄を削ぎ落とした
     山田宗偏の美学は、新興都市の人々に受け入れられた。


ちなみに、菅沼定実の3代さかのぼった先祖に菅沼定貴という人物がいます。菅沼定貴の2人の娘は、本田正直、本田正矩にそれぞれ嫁ぎました。この本多家は、麻布桜田町の吸江寺を菩提寺にしていたため、嫁いだ2人の娘も吸江寺に葬られています。この吸江寺は、無外流の辻月丹とは深い関係がある寺院で、忠臣蔵とも浅からぬ縁がありました。
ついでに言えば、山田宗偏の弟弟子の京極高久も要注意人物です。なんと、京極高久の祖父の京極満吉も吸江寺に葬られていました。

どうでもいい知識はこのくらいにして、さっそく次のページで、山田宗偏と忠臣蔵の関係について見ていきましょう。



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