MENU 〜 無外流兵法譚
はじめに 〜 無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
武道浪漫 〜 無外流兵法譚
お問い合わせ 〜 無外流兵法譚
TOPページ 〜 無外流兵法譚
無外流真伝剣法訣 〜 無外流兵法譚
無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
  
                第七回
  
  徹底検証! 茶道忠臣蔵 @ 


元禄十四年12月14日、江戸に潜伏していた赤穂浪人たちは、筆頭家老だった大石内蔵助を首領として本所松坂町の吉良上野介邸に討ち入りました。
今回は、なぜ討ち入りが12月14日に決行されたのか、入手できるもっとも信頼できる史料をもとに検証していきます。


      吉良上野介愛用の茶道具
   山田宗偏は吉良邸をしばしば訪れ茶湯の
   指導をしていた。この茶道具は、討ち入り
   の晩の茶会で使用されたと伝えられている。
小説やドラマでは、浪士の一人で俳人としても知られていた大高源吾が茶匠の山田宗偏に弟子入りし、吉良邸で12月14日に茶会が催されることを聞き出すというパターンがスタンダードです。大石内蔵助は、ホスト役の吉良上野介が在宅しているのは間違いないと考え、決行日をこの日にします。
そこに演出上の尾ヒレが付いて、「吉良上野介は若い頃から職務で京都に滞在することが多く、京都で千宗旦に弟子入りして山田宗偏と兄弟弟子の関係だった」というものから、「山田宗偏は、吉良との友情と赤穂浪士の忠義の間で悩んだ末、大高源吾の義侠心に同情して14日の茶会の一件を知らせた」という浪花節のような話まで様々ですが、どこまでが信頼できる話なのでしょうか?

忠臣蔵に関係する一次史料は、宮本武蔵や辻月丹に関するものに比べれば豊富に存在します。罪人とされた浪士の遺族たちの名誉回復が比較的早く行われ、世間が「義士」「烈士」とヒーロー扱いしたこともあって、その手紙や遺品などが大切に保管されたのです。もちろん、なかには捏造された(としか考えられない)史料もたくさんあります。

    大高源吾忠雄(享年32)  
   文化人の源吾は、子葉(しよう)
   の俳号で多くの句を残している。
   辞世の句は「梅で呑む茶屋もあ
   るべし死出の山」だった。
しかし、リアルタイムに記述された一次史料のなかで、大高源吾の一件を説明するものはほとんど存在しません。

そこで二次史料以下にまで範囲を広げてみましょう。
歴史家に信頼されている史料のなかで、大高源吾のこの一件が登場するのは「江赤見聞記」(ごうせきけんぶんき)という文献です。浅野内匠頭の正室・瑤泉院(ようぜんいん)の用人(秘書)だった落合与左衛門が書いたとされるもので、ほぼリアルタイムと言って差し支えないものです。タイトルは、「江戸と赤穂で見聞きした記録」という意味で、瑤泉院の用人と言っても赤穂浪士を一方的に賛美する書き方ではなく、その内容は赤穂藩に幕府から通達された文書類や浪士たちの手紙などを中立的な立場で編纂したもので、いずれにせよ赤穂藩の公文書を自由に見ることが出来た人物の手によるものであることは間違いありません。
史料中には、赤穂浪士たちの所在や大石内蔵助の動静なども詳細に記述され、赤穂事件を扱った歴史書で「江赤見聞記」に依らないものは一冊もないと言われています。

では、「江赤見聞記」では、12月14日の茶会の一件をどのように記述しているのでしょうか?
ここに、その要旨を紹介します。

@.大石内蔵助の親類である大石無人(ぶじん)の次男である大石三平(みつひら)は、山田宗偏の弟子だった。同門には、中嶋五郎作(ごろさく)という材木問屋がいて、大石三平と親しかった。

A.中嶋五郎作のところに借家していた羽倉斎(はくらいつき)は、江戸で神道や歌道を教えていて、吉良上野介の屋敷にも出入りしていた。大石三平は、この羽倉斎から12月14日に吉良邸で茶会が催されることを聞いた。

B.赤穂浪士の一人である大高源吾も山田宗偏に入門していて、大高源吾も12月14日の茶会の情報を掌握していた。

C.羽倉斎と大高源吾の2つのルートから茶会の情報を知った大石内蔵助は、この日は吉良上野介が在宅しているに違いないと考え、12月14日を討ち入り決行日と決めた。


   堀部安兵衛武庸(享年34)
  「決闘高田の馬場」で有名な、赤
  穂浪士随一の剣の遣い手。急進
  派だった堀部は、穏健派の大石
  内蔵助とはしばしば対立する。
  最後は大高源吾らと共に久松松
  平家で切腹した。なお、「やすべ
  べえ」ではなく、正しくは「やすひ
  ょうえ」である。

討ち入り決行日の決定に大高源吾が関与しているという話を、一部の学者は、「大高源吾が著名な風流人だったことに結びつけた後世の作り話」だと斬り捨てていますが、じつは討ち入り間もない頃に書かれた「江赤見聞記」にはっきり記されているのです。ただし、「江赤見聞記」では、メイン情報は羽倉斎ルートのほうで、大高源吾ルートは羽倉情報の補足確認のようなニュアンスになっています。

赤穂浪士のなかでも、堀部安兵衛(やすひょうえ)のような江戸に滞在していたグループと違って、大高源吾は直前まで京阪神方面に潜伏していた人物です。大高源吾が山田宗偏に弟子入りできたとしても11月以降ですから、討ち入りまでの一ヶ月余で重要な情報を聞き出せると期待するほうがむしろ不自然です。
メイン情報のルートは別にあって、大高源吾はそれを補足する役割だったと考えたほうが合理的に思えます。



Back(第六回)<< 宗偏流と石州流メニュー >>Next(第八回)
 
トピックス 近世史研究会 〜 無外流兵法譚
2010.03.20  無外流創始330周年記念
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 噴火の章」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
2008.11.15
史談往来 「
宗偏流と石州流 辻月丹と茶湯」 アップ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
2008.06.23
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 青雲の章」 リニューアル  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
2008.02.01
武道浪漫 「
山口流剣術とその時代」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9
2007.09.16
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 不死鳥の章」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
2007.05.21
史談往来 「
無外流と忠臣蔵 元禄赤穂事件外伝」 アップ 1 2 3 4
2007.05.01
史談往来 「
吸江寺をさがせ! 無外流が生まれた風景」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.04.08
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 青雲の章」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.03.10
史談往来 「
プロジェクトエックス 将軍謁見事件の真相」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.03.01
史談往来 「
無外流と文殊菩薩」 試験アップ  1 2 3
2007.02.25
無外流兵法譚 試験アップ開始   
 COPYRIGHT(C) Modern History Workshop.

無外流兵法譚