MENU 〜 無外流兵法譚
はじめに 〜 無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
武道浪漫 〜 無外流兵法譚
お問い合わせ 〜 無外流兵法譚
TOPページ 〜 無外流兵法譚
無外流真伝剣法訣 〜 無外流兵法譚
無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
 
                第八回
  
  徹底検証! 茶道忠臣蔵 A 


いずれにせよ、大高源吾がこの一件のキーパーソンの一人だったことは間違いありません。 それでは、12月14日までの流れを他の史料でも確認しながら、大高源吾や山田宗偏が果たした役割について考えてみたいと思います。

まず、吉良上野介が屋敷に滞在している日を選ぶ必要性は理解できるとしても、そもそも隠居の身分の吉良上野介が、そんなに家を留守にすることが多かったのでしょうか?
じつは大石内蔵助は、吉良上野介がほとんど屋敷にいないことを早くから突き止めていました。


  
堀部弥兵衛金丸(享年77歳)
  浪人だった安兵衛を口説き落とし
  て堀部家の婿養子にする。大石
  三平と交流があり、最後は大石
  内蔵助らと細川家で切腹した。
  この絵は歌川国芳の「誠忠義士
  肖像」より。
堀部安兵衛(やすひょうえ)の養父である堀部弥兵衛(やひょうえ)の言行を集めた「堀部金丸覚書」(ほりべあきざねおぼえがき)という史料があります。これは、浪士の一人である堀部弥兵衛が書いた日記やメモ書きなどを編纂したもので、堀部弥兵衛の直筆が残っていますから一次史料と言えるものです。
「堀部金丸覚書」によれば、弥兵衛は大石三平から中嶋五郎作という人物を紹介されます。11月6日のことです。この中嶋は京橋で材木問屋を経営していながら、かなりの趣味人で、茶匠山田宗偏の門人でもありました。また、中嶋五郎作の店子の羽倉斎(はくらいつき)という神道家のことを聞かされました。羽倉斎は吉良家の家老・松原多仲(たちゅう)の神道・歌道の師匠だったので、吉良家とも懇意でした。11月8日に再会した大石三平は、この羽倉斎からの情報として、吉良上野介は邸内で頻繁に茶会を催していること、そして吉良邸の修理や掃除は行き届いておらず、上野介は屋敷を住居としては使用せずに、息子が藩主をしている米沢藩上杉家の上屋敷で寝泊まりすることが多いこと、などを伝えます。

吉良を狙える瞬間は茶会のタイミングしか残されておらず、大石内蔵助にとって、ここで初めて吉良邸の茶会のスケジュールが重要な意味を持ってくるのです。ですから、大高源吾を山田宗偏のもとに送り込むとすれば、この11月8日以降しか考えられません。実際に、大高源吾が山田宗偏に入門できたのは11月19日で、討ち入りまで1ヶ月を切っていました。
いずれにしろ、情報ルートとして中嶋五郎作&羽倉斎ルートのほかに、大高源吾ルートを確保したのです。


    
寺坂吉右衛門信行
 討ち入り時は36歳。現在でも、討
 ち入り不参加説から逃亡説まで
 論争に決着はついていない謎の
 多い人物。おそらく、泉岳寺で切
 腹するつもりだった大石内蔵助た
 ちは、切腹まで付き合う必要はな
 いからと、寺坂を逃がしたのでは
 ないか。
この絵は大石神社所有
 のもの。
また、赤穂浪士のひとり、寺坂吉右衛門の言行をまとめた「寺坂信行筆記」にも重要な証言があります。これは、寺坂吉右衛門の孫が吉右衛門から聞き取ったことを執筆したものです。
寺坂吉右衛門とは、討ち入り後に吉良邸から泉岳寺まで引き上げる間に、ただひとり離脱した男です。寺坂吉右衛門は、四十七士の中でも軽輩だったため、泉岳寺まで同行させてもらえなかったとか、主人の吉田忠左衛門の命を受け、浪士の家族に事件の顛末を伝えるために離脱したとか、離脱の理由は現在も謎とされています。
晩年は江戸麻布の曹溪寺で寺男をしていたようで、延享四年(1747)に83歳で亡くなりました。
この寺坂吉右衛門の言行を編纂したのが「寺坂信行筆記」です。
「寺坂信行筆記」によると、大石内蔵助の親類の大石無人(ぶじん)・三平(みつひら)の父子が江戸で浪人をしていて、大石三平が山田宗偏に弟子入りしていたことに目をつけた大石内蔵助が、吉良家の動静を報告させていたと書かれています。
そして、大石三平から知らされた茶会は12月6日で、初めはこの日を討ち入り決行の日にします。

ところが、前日12月5日の晩に、徳川綱吉が側用人の柳沢吉保邸へ下向すると言う情報が入ったため、討ち入りは中止になりました。綱吉の御成で江戸の町の警護が厳しくなると心配したのです。

     六義園(東京都文京区)
   柳沢家の江戸藩邸の庭園だった六義
   園は元禄15年に完成している。水戸
   藩邸の後楽園とともに、江戸の二大
   庭園と呼ばれた。
「常憲院殿(綱吉)御実記」にも、12月5日は「松平美濃守吉保がもとにならせ給う」と書かれています。柳沢吉保は11月に徳川綱吉から松平の姓を名乗ることを許され徳川一門の仲間入りをしていました。12月5日には柳沢の嫡子吉里とその妻にも、将軍自ら祝賀の品を手渡すために下向したのです。
柳沢吉里に対する徳川綱吉の愛情は異常なほどで、こうしたことから柳沢吉里の「綱吉の隠し子伝説」が生まれます。例えば東京大学史料編纂所教授の山本博文氏も「あながち嘘とは言い切れない」と言っているように、現在も隠子伝説は一部で支持されています。
余談ですが、この柳沢吉里の正室は、辻月丹の最大の支援者である酒井忠挙(ただたか)の娘です。横浜の金沢八景には、酒井忠挙と柳沢吉里の二人が舟に乗って漢詩を詠んだという伝説が残っていますが、それは別の機会に取り上げたいと思います。

さらに、「堀部金丸覚書」と「寺坂信行自記」には一致する記述があります。
もともと、大石無人・三平父子は、大石内蔵助よりも堀部弥兵衛・安兵衛父子と懇意にしていた人物でした。堀部弥兵衛が大石三平に宛てた12月11日付の手紙では、堀部弥兵衛は三平に対して、「12月6日の茶会が延期されて浪士たちが焦っているので、早く次の茶会の期日を突き止めて欲しい」と催促しているのです。「御むつかしきながら草々お知らせ下さるべく候」と切迫した状況を伝えています。江戸に潜伏してからも離脱者が続出し、12月11日は江戸急進派の一人である毛利小平太が脱落した日だったので、堀部弥兵衛の焦りが極限に達していたことが分かります。
「寺坂信行自記」では確かに12月6日の茶会情報は存在しており、「堀部金丸覚書」では12月6日以降のことを大石三平に催促しているわけですから、二つの情報がピタリと一致しているのです。


  人間国宝・七世竹本住太夫の
  CD「義士銘々伝 弥作鎌腹の段」
  (ぎしめいめいでん やさくかまば
  らのだん)
  討ち入り当日の茅野和助が主人
  公である。泣けます。
実際に、12月6日の討ち入り計画はあったようで、茅野和助(かやのわすけ)が12月5日に家族へ宛てた暇乞状には、6日が討ち入りと記述されています。「明6日朝後、やしきへ切り込み申すはずに御座候」という一節が残っています。ちなみにこの頃の1日とは、日の出から次の日の出までですから、12月6日は6日の日の出から7日未明(日の出前)までを意味します。



Back(第七回)<< 宗偏流と石州流メニュー >>Next(第九回)
 
トピックス 近世史研究会 〜 無外流兵法譚
2010.03.20  無外流創始330周年記念
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 噴火の章」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
2008.11.15
史談往来 「
宗偏流と石州流 辻月丹と茶湯」 アップ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
2008.06.23
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 青雲の章」 リニューアル  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
2008.02.01
武道浪漫 「
山口流剣術とその時代」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9
2007.09.16
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 不死鳥の章」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
2007.05.21
史談往来 「
無外流と忠臣蔵 元禄赤穂事件外伝」 アップ 1 2 3 4
2007.05.01
史談往来 「
吸江寺をさがせ! 無外流が生まれた風景」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.04.08
史談往来 「
辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 青雲の章」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.03.10
史談往来 「
プロジェクトエックス 将軍謁見事件の真相」 アップ  1 2 3 4 5 6 7 8
2007.03.01
史談往来 「
無外流と文殊菩薩」 試験アップ  1 2 3
2007.02.25
無外流兵法譚 試験アップ開始
   
 COPYRIGHT(C) Modern History Workshop.

無外流兵法譚