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宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
  
                第九回
  
  徹底検証! 茶道忠臣蔵 B 



    大石内蔵助愛用の扶持欠けの釜
   大石が主君内匠頭の苦労をねぎらい、
   遠く赤穂の地で茶を点じて献上しようと
   したその時、釜の扶持が欠けてしまっ
   た。この瞬間、江戸城中では刃傷事件
   が起きていたという。
堀部弥兵衛の手紙からわかるように、12月11日にはまだ14日の茶会情報は入手できていなかったのです。
しかし、12月13日の富森助右衛門(とみのもりすけえもん)が大石無人に送った手紙では、翌14日の茶会情報をとりあえず入手できていたことがわかります。富森助右衛門の手紙には

「(吉良邸に)いよいよ明日客これ有り候段、承知いたし候えども、心もとなく候間、斎(いつき)を以て申し来たり候つもりに付き、今日昼過ぎ垣見五郎兵衛宿へ内々お出で下されたく候」

とあるのです。
斎は羽倉斎のことで、垣見五郎兵衛は大石内蔵助の変名です。近衛家用人を名乗っていました。

この内容を意訳すると、「吉良邸の茶会が、明日に催されることを突き止めました。しかしながら、信憑性は疑わしいので、羽倉斎にも確認したいのです。つきましては本日昼過ぎ、大石内蔵助の宿で会えませんか?」というものです。
つまり、14日の茶会情報は、11日〜13日の間に入手できたことになります。

          
          近衛家用人・垣見五郎兵衛
 忠臣蔵の後半は、名場面が目白押しだが、なかでも垣見五郎兵衛が登場する「大石東下り」は、「南部坂雪の別れ」「俵星玄蕃涙の助勢」「赤埴源蔵徳利の別れ」などと共に、涙必至の名場面だ。 
 偽名で宿泊している内蔵助の宿で、本物の垣見五郎兵衛と出くわしてしまう。垣見は近衛家発行の道中手形を示すよう大石に迫るが、大石が見せたのは主君内匠頭が切腹で使用した短刀だった。しかし鷹羽の定紋で赤穂の旧臣と察知した垣見は、本物の道中手形を大石に与え、「武士は相身互い」と言い残して去っていく胸を打つ物語。
 写真は、長谷川一夫(国民栄誉賞)と中村鴈治郎(人間国宝)が共演した大映オールスター版。

では、富森助右衛門の手紙にある、14日の茶会情報はどこから入手したのでしょうか?
じつは、富森助右衛門のこの手紙には、非常に重要なことが書いてあります。
これまで確認してきたように、情報ルートは、

@.中嶋五郎作&羽倉斎
  (羽倉は吉良家に出入りする国学者)

A.大石無人・三平 父子
  (内蔵助の親戚で、三平は山田宗偏の弟子)

B.大高源吾
  (赤穂浪士の一人で、山田宗偏の弟子)

の3つがありました。
富森の手紙は、「大石無人さん、我々はある筋から14日の茶会情報を入手しました。つきましては、羽倉斎にも確認をお願いしたい」と言っているのです。つまり、「ある筋」とは、ここに登場しない中嶋五郎作か大高源吾しか考えられないわけです。しかし、中嶋五郎作の可能性は、ほとんどゼロだと言えましょう。なぜなら、中嶋五郎作は羽倉斎に非常に近い人物です。もし中嶋五郎作がネタ元ならば、すでに羽倉斎にも確認済みの情報と考えるべきで、羽倉斎に裏付けを取りたいということは、中嶋や羽倉とは全く別の情報源だと考えなければ辻褄が合いません。

つまり、12月14日の茶会情報を突き止めたのは大高源吾しか考えられないのです。


     両国橋の別れ
  
   風流人だった大高源吾
   は、俳人の宝井其角の
   弟子でもあった。
   左のシーンは、13日に
   宝井
其角が両国橋の
   上で、笹竹の行商をして
   いた大高源吾と
ばったり
   出会う有名なシーン。
   
其角が、
 
   「年の瀬や 水の流れ
   と 人の身は」
 
   と題を出すと、
大高は
 
   「明日またるる その宝
   船」
  
   と返した。

「江赤見聞記」(ごうせきけんぶんき)によれば、大高源吾は12月10日頃に山田宗偏を訪ねています。
大高源吾は、大阪の商人・脇屋新兵衛と名乗り山田宗偏に近づいていました。近日中に大阪に戻らなければならないので、臨時の教授を依頼したのです。山田宗偏は了解し、12月15日を提案しました。しかし、大高源吾はもっと早い日を希望してその間の予定を訪ねました。すると、12月14日には吉良邸で茶会があり、それに出席すると聞かされます。
この情報が、大石内蔵助に伝わることとなります。

大石内蔵助は、大高源吾の情報の裏付けを急ぎました。
羽倉斎には12月12日に確認をとったところ、羽倉からは「心もとない」という返答でした。
堀部弥兵衛も大石三平に確認をします。堀部弥兵衛の13日付けの手紙には「今日中、必々垣見へ御越し頼み奉り候」と、必死な様子がうかがえます。

そしてついに13日、念願の羽倉斎からの最新情報が届きます。

      羽倉斎(1669〜1736)
   京都伏見稲荷の神官の子として生ま
   れ家学の神道と歌道を学び、妙法院宮
   (霊元天皇の皇子)に歌道を教えた。
   その後江戸に出て幕府に仕え、神道・
   歌道・有職故実の研究を行った。
そこには「御頼み候両品の事、とかく相知れ申さず候」と書かれていたものの、「なおなお、彼方の儀は十四日にようにチラと承り候」と書かれていました。「御頼み候両品」と「彼方の儀」が何を意味するのかいくつかの解釈がありますが、おそらく大石内蔵助たちには理解できたのでしょう。
「茶会が14日という噂は聞いているが、確約は出来ず、その日に吉良が在宅しているかも分からない」という解釈が一般的なようです。

こうして確信が持てないまま、運命の12月14日を迎えます。
前日の間瀬久太夫(ませきゅうだゆう)の手紙には、「明朝、斎(いつき)より案内次第、またまたその段、申し入るべく候」とあるように、浪士たちは羽倉斎の最新情報に期待していたのです。

「寺坂信行自記」によれば、「十四日昼時、かねて申し合い候大石三平方より上野介殿御事、今日帰宅なされ候よし聞き付け、さっそく告げ来り候」とあります。おそらく大石三平の情報源は羽倉斎でしょうが、この情報は、前日まで上杉邸に宿泊していた吉良上野介が、その日に帰宅する予定だ、というものでした。

さらに「江赤見聞記」では、この後に大高源吾からも、吉良上野介が今日帰宅するらしいと言う情報を伝えたことになっています。

結局、討ち入り日を決めるにあたり、大高源吾が果たした役割をまとめると、下記のようになります。

* 当初は、羽倉斎情報の裏付けが目的で山田宗偏に送り込まれた。

* しかし12月14日情報を突き止めた最大の功労者は大高源吾で、このときから羽倉は大高情報の裏付け確認に利用されるという、立場が逆転した。

* 12月14日に吉良上野介が帰宅することも突き止め、これで討ち入りへの引き金が引かれてしまった。


これが戦国時代ならば、田楽狭間で今川義元が休息していると織田信長に知らせたほどの功労者が大高源吾だったと言えるでしょう。



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