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宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
  
                第十回
  
  徹底検証! 茶道忠臣蔵 C 


そして、運命の吉良上野介邸討ち入りへと突き進むことになります。
赤穂浪士たちが、吉良邸から約1キロ離れた集合場所を出発するのが12月14日七ツ時(翌15日午前4:40)ですから、吉良邸に到着したのは午前5時頃と考えられます。元禄14年12月14日七ツ時は今日の暦では1月31日午前4:40ですから、1月31日午前5時頃には吉良邸前に到着したことになります。
そして宿願を果たし、まだ朝日の昇らぬ午前6時頃には吉良邸を引き上げたのでした。


              義士引揚之図
     両国橋を渡ろうとする浪士の前を、大目付・仙石伯耆守が立ち
     塞がる。橋を渡ると江戸御府内だから、ここを通すわけにはい
     かないが、引き返して道を変えて泉岳寺まで行くのなら、幕府
     は一時見逃そうという配慮だった。


前述したように、宗偏流の山田家には浪士の潮田又之丈が槍の先にぶら下げて泉岳寺に運んだ吉良上野介の首は、じつは茶会で使われた「桂籠」で、本物の吉良の首は別に運んだという奇妙な話が伝わっているそうです。作り話だとしても、血生臭いことを嫌う茶道流派が、あえてこんな話を作ること自体が不思議な気もしますが、よくよく調べてみると、この話は作り話とも言い切れないのです。

まず、「堀部金丸覚書」によれば、首の輸送にかんする事前計画として、

討ち退き候節右の舟に取り乗り、泉岳寺へ舟を着け、御石塔へ父子の首を供え各拝を仕り

とあるのです。つまり、首だけを舟で別に泉岳寺に運ぶ手筈だったのです。また、大石内蔵助が事前に指揮した命令書では、必ず上杉軍が首を取り返しに来るから、首は上着でくるんで隠すように細かな指示があります。

「桂籠」は千利休伝来で山田宗偏にとっては家宝にも匹敵する花入れであり、風炉の季節でもないそんな真冬に、利休正伝の印可状とも言うべき品を、なぜ吉良邸に持ち出したのか?この辺も不思議ではありますが、元禄15年12月19日が千宗旦の四十五回忌であることを考えれば、当日の茶会では千宗旦を偲んでいたと考えることで納得ができます。


明けて12月15日、46人の赤穂浪士は、泉岳寺の亡君に報告を済ませた後、幕府大目付に自首します。


         仙石邸門前の場(天保四年(1833))
    大目付の仙石伯耆守(ほうきのかみ)に自首する大石内蔵助
    (市川團十郎)と密命を受けて離脱する寺坂吉右衛門(尾上菊
    五郎)。門扉の下桟の形作る線が、まさに団十郎の強い視線
    をあらわすかのように配されて、二人の間の緊張感を巧く演出
    している。なお、史実では寺坂は吉良邸引き上げ直後にすでに
    離脱している。
  
早朝の幕閣の評定では、赤穂浪士を夜盗同然と見なして全員斬首という方針が決まります。とくに強硬だったのは、前日の吉良邸に主賓として招かれていた老中の小笠原長重でした。長年の友人だった吉良上野介を殺されたばかりか、自身も一歩間違えば危なかったわけですから、怒り心頭だったことでしょう。

ドラマでは、山田宗偏が大高源吾の「義侠心に同情」して茶会の一件を知らせた、と言うような解釈が見られますが、現実には山田宗偏の積極的な関与は存在しなかったはずです。 山田宗偏は、この時すでに小笠原家の茶頭の地位を子孫に譲っており、自身は長重の家臣ではありませんでしたが、40年以上も仕えていた小笠原家を自らの意志で裏切るような真似は出来なかったはずですし、息子にも責任が及ぶような危険な真似をするとは思えません。後で責任を問われることを覚悟しながらも義侠心で支援し、「天野屋利兵衛は男でござぁ〜る」と大見得を切るのとは立場が異なります。
たしかに、当時の世論は赤穂浪士に同情し「武士の鑑」(かがみ)と持てはやす風潮はありました。しかし、小笠原長重自身が赤穂浪士に対して厳しい見方をしていた最右翼の一人だった以上、山田宗偏が(仮に浪士に同情していたとしても)小笠原長重と対立する行為をするとは考えにくいのです。


           天野屋利兵衛は男でござる
   大阪の商人・天野屋利兵衛は、討ち入りの武具の調達などを請け
   負って赤穂浪士を陰で支援した。そのため、大阪町奉行所から厳
   しい取り調べを受けたが、最期まで口を割らなかった。
   「天野屋利兵衛は男でござる」は、この場面の決めゼリフ。ただし、
   これは完全なフィクションである。

山田宗偏の子孫が、その後も小笠原家の茶頭を勤め続けていることなどを考慮すれば、山田宗偏の積極的な関与は、当時から噂ぐらいはあったのかも知れませんが、真面目に詮索されるようなことではなかったのです。

ちなみに、討ち入り直前の茶会のメンバーは次の通りです。

  正客  小笠原長重
  次客  大友義孝
  詰    品川伊氏
  亭主  吉良義央
  半東  山田宗偏

とりあえず、赤穂浪士46人は、肥後細川家、久松松平家、長府毛利家、三河岡崎水野家の四家に分散して預けられます。
驚くことに、大目付からの要請で46人を引き取りに行くこの四家の武士たちの数は、なんと1,400人でした。たかだか46人を迎えに行くのに、1,400人が大目付邸に集結し、小雨の中を12時間も待ち続けたのです。

このとき、後に久松松平家で浪士たちの世話役になる波賀清太夫朝栄(せいだゆうともひさ)という人物が書き残した「波賀清太夫覚書」は、機会があればぜひ読んでいただきたい面白い文献です。
波賀清太夫は、大目付邸内にいた赤穂浪士に羨望の眼差しを向けていました。そして、鉄砲隊まで持ち出して、大目付邸の前に集結したのです。彼らは、武門で知られた上杉家が実父を殺されて仕返しにやって来ないはずはないと確信していました。そして、上杉軍と一合戦して武士の一分(いちぶん)を見せたかったのです。この間の、波賀清太夫の疲労は極限に達していたはずですが、逆にアドレナリンの分泌も最高潮で、小雨の中でメラメラと燃えている様子が興味をそそります。
しかし、米沢上杉家は動きませんでした。














      イタリア大使館
   大高源吾ら10人は、現在イタリア
   大使館がある久松松平家の上屋
   敷に預けられ切腹した。
大高源吾は、堀部安兵衛や大石主税(ちから)らと共に、この久松松平家に預けられます。松平家と細川家では、藩主自ら浪士たちに面会するほどで、切腹の当日まで厚くもてなしたと言われています。
「忠誠後鑑録」(ちゅうせいこうかんろく)と言う史料には、大高源吾がこの松平家にいる間に、山田宗偏に詫び状を送ったと記されています。

「一つには謀計ながら師弟となり、真実にその道を伝え給いし謝礼を述べ、二つには近来隔意なく懇に預かり忝旨を述べ、三つには天神地祇の加護によって公に参会致し、この大願を果たす事、卑臣は申すに足らず、亡主の憤りを散ずる事、有難き次第、生々世々の御厚恩、四十六人一同に相歓候。ただし欺きて師とし、欺きて弟子と成りたる事恐れ入り候。併しながら義士忠臣の為す所なれば、御免を蒙るべし。(忠誠後鑑録)

とあります。
この手の話は、後世の作り話が多いのですが、我々はこれに近い話は存在していたと考えています。それは、久松松平家の浪士に対する厚遇を考えれば、浪士の口上を伝えるくらいの対応はしたでしょうし、波賀清太夫という情に厚く無骨を絵に描いたような武士と毎日接していれば、目的のためとはいえ師匠に詫びを入れたいと自然に思う気がするのです

翌元禄十六年2月、浪士たちは全員切腹し泉岳寺に葬られ、こうして「茶道忠臣蔵」の物語は幕を降ろすことになります。


山田宗偏は、宝永五年(1708)に江戸でなくなりました。 宗偏の子孫たちは、小笠原家に代々仕え、利休正伝の茶道を伝えて行ったのでした。


    河井継之助とガドリング砲
   幕末の越後長岡藩に彗星のごとく登
   場した河井継之助は、幼少時から宗
   偏流に親しみ、自ら蒼龍窟と号した。
   官軍との和平を望んだが、時代は彼
   を戦場に駆り立てたのである。
また、羽倉斎はこの後国学者として大成し、八代将軍・徳川吉宗に講義をするまでになります。国学者としては、荷田春満(かだのあずまろ)という名前を用い、江戸時代を通じて賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と並んで、国学の四大人と呼ばれています。
その間、羽倉斎の最大の理解者は、越後長岡藩主の牧野忠辰(ただとき、1674〜1721)でした。長岡藩では後に牧野忠精(ただきよ、1760〜1831)の頃に、茶堂を置いて正式に宗偏流を採用しています。
そして長岡の宗偏流は、幕末に登場する「ガドリング砲」の河井継之助(つぐのすけ、1827〜1868)らにも継承されていくのです。
今日でも越後長岡と言えば、日本でもっとも宗偏流が盛んな地域のひとつとして知られていますが、その切っ掛けをつくったのは、「茶道忠臣蔵」での縁だったのかも知れません。



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