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宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
  
              第十一回

  宗雅と抱一 (そうがとほういつ)@


辻月丹をとくに庇護した大名四家のうち、伊達家と小笠原家の茶湯に触れてきましたが、残る山内家と酒井家の茶湯についても見てみましょう。

山内家では、江戸時代初期には金森宗和(かなもりそうわ)が茶頭を勤めており、歴代の藩主の見事な茶道具から推察すると、それなりに盛んだったと考えられます。しかし、江戸時代を代表する大名茶人と言えるほどの藩主は輩出していません。


      酒井忠世画像
   徳川秀忠の側近として土井利勝
   と共に江戸幕府最初の大老とな
   る。家光時代に、家光が日光参
   詣中に江戸城で留守を守ってい
   たが、火災を起こして失脚する。
   曾孫の酒井忠挙が徳川吉宗の
   政治顧問となったとき、曾祖父の
   火事事件の教訓から、江戸町火
   消しを提言している。町火消しを
   提言したのは大岡越前ではなく、
   酒井忠挙なのだ。
いっぽうの雅楽頭系酒井家では、藩主自らが茶湯を好んでいたことを示す記録が多く残っています。これは、藩主の趣味嗜好の問題というより、酒井家が譜代大名筆頭として江戸幕府における大老・老中を輩出した特殊な家柄だったことに関係しているようです。
老中・大老を勤めた酒井忠世(1572〜1636)や、同じく老中・大老を勤めた酒井忠勝(1587〜1662)が、徳川秀忠や家光の側近中の側近だったため、将軍に点茶を献じる機会も多かったのです。とくに酒井忠勝は、小堀遠州と交流が深く茶を学んだことで知られています。


     酒井忠勝画像
  忠勝は、徳川家光がもっとも寵愛
  した側近だった。牛込(現在の神
  楽坂付近)の酒井邸に下向するた
  めに外堀に架けたのが牛込橋だ。
  忠勝は、家光が下向するときに屋
  敷を矢来垣(やらいがき)で囲んだ
  ため、酒井邸の付近は「矢来町」
  と呼ばれるようになった。
酒井家に石州流茶道が伝わるのは、四代将軍徳川家綱の頃の老中・大老を勤めた酒井忠清からで、石州流の平国宗斎を茶道師範に迎えています。平国宗斎は、酒井忠清、忠挙(ただたか)の父子二代の時代に茶道師範を務めており、酒井家からは年間金百両、歳暮には黒羽二重御紋服と雁二羽が与えられました。平国宗斎は宝永五年(1708)に隠居が認められ、その後は生涯三人扶持が支給されました。

さすがに「下馬将軍」と言われた酒井忠清だけあって、徳川家綱へ点茶を献上した記録や、大名・公家の茶会に招かれた記録も豊富です。しかし、次の徳川綱吉時代に酒井忠清は失脚して息子の酒井忠挙も幕政から遠ざけられたため、酒井家の茶湯の記録は姿を消します。その後、忠相(ただみ)、親愛(ちかよし)、親本(ちかもと)と三代にわたる藩主が若死にしたため、酒井家の幕府における家格は下がり続けました。


       
酒井忠恭画像
    徳川家重は将軍としての器量には疑
    問がある人物だった。父親の吉宗は
    家重がやり易いように幕閣を同世代
    で固めたのだ。酒井家当主が本丸老
    中になるのは久しかったが、さすが酒
    井家、いきなり老中首座である。

酒井家の家格が完全復活したのは、徳川吉宗の大御所時代からです。
徳川吉宗は、長男の徳川家重(1712〜1761)に将軍職を譲るにあたって、家重と年齢の近い譜代名門の藩主たちを抜擢して家重政権を盛り立てようとしました。家重より二歳年長の前橋藩主・酒井忠恭(ただずみ、1710〜1772)を老中首座としたのです。さらに忠恭を、それまで徳川一門に準ずる大名家しか任されることのなかった、西国の抑えの要とも言うべき播磨姫路城主に指名しました。酒井忠恭の江戸城内の殿席も彦根井伊家と同じ溜の間(たまりのま)とし、酒井家の家格を完全復活させて政権を支えさせたのでした。
酒井忠恭が茶湯に熱心だったかはわかりませんが、茶器のコレクターとしてはかなり有名だったようです。

酒井忠恭の死後、すでに早世していた嫡子の忠仰(ただもち、1735〜1767)に代わって、孫の酒井忠以(ただざね、1756〜1790)が弱冠18歳で播磨姫路城主となります。

       酒井宗雅(忠以)画像
     若年ながら将軍名代として光格天皇
     即位式に参賀し、溜間詰を命じられる
     など、将軍補佐役として重要な位置
     にあった。
     あり余る才能を開花し尽くせぬまま、
     36歳の若さで亡くなった酒井宗雅だ
     が、その風雅を楽しむ生き方は、多く
     の理解者に受け継がれた。
酒井忠以は、宗雅と号した異色の藩主でした。大名の教養として、能、連歌、仕舞、俳諧、弓、槍などを学んでいますが、とくに絵画と茶湯にかけた情熱は並々ならないものでした。

絵は若い頃から狩野派総本家の狩野高信に学び、後には長崎派の宋紫石や宋紫山にも学んでいます。七歳年下の弟・忠因(ただなお)にも絵の手ほどきをしており、兄弟二人で描いた絵が残っています。忠以の画技は当時の狩野派の画家たちと比較しても遜色なく、もっと評価されてしかるべき大名画家の一人です。
酒井忠以が実際よりも評価が低い原因は、おそらく弟の酒井忠因があまりにも著名な画家だったことにあるのかも知れません。




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