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宗偏流(そうへんりゅう)と
    石州流(せきしゅうりゅう)
   
    辻月丹と茶湯
  
               最終回

 宗雅と抱一 (そうがとほういつ)A


酒井忠因(ただなお)は、号を抱一(ほういつ)と言い、尾形光琳に私淑して琳派を完成させた人物と言われています。江戸小石川の酒井家別邸で生まれ、7歳で父・忠仰を、11歳で母・里姫を、12歳で祖父・忠恭を亡くし、兄・忠以を親代わりに生きてきました。兄が若くして亡くなると剃髪し、大名の束縛された生き方を嫌い、市井に住んで悠々と文雅の世界に生きました。おそらく、酒井家の歴史上、もっとも有名な人物と言っても良いでしょう。


           赤茶碗白玉椿図(宗雅、抱一 作)
      酒井宗雅と抱一の兄弟共作の一枚。宗雅手作りの赤茶碗と
      白椿の対照が見事な、ほのぼのとする作品。赤茶碗を宗雅が、
      白椿を抱一が描いた。


酒井抱一が絵画の世界に没頭する頃、兄の宗雅の興味は絵画から茶湯に移っていきました。もともと石州流を学び、宗雅と号した茶人大名でもあり、自ら「石州三百箇条」(全34冊)を書き写しているほどですが、当時の最高の茶人大名と言われた松平不昧(ふまい、1751〜1818)との出会いが茶道に没頭する切っ掛けになったのは間違いないようです。
とくに晩年の茶湯に賭ける情熱は凄まじく、酒井宗雅が残した「玄武日記」「逾好日記」(ゆこうにっき)には、彼の茶会の様子が亡くなる直前まで記録されています。


   逾好日記(一得庵宗雅筆)
   松江藩主・松平不昧の指導で
   茶道への造詣を深めた宗雅は、
   天明六年(1786)末、江戸上
   屋敷に新たな茶室「逾好庵」を
   設けた。これに因んで名付け
   られた『逾好日記』には二年半
   にわたって179回の茶会記が
   記されている。
「逾好日記」によれば、酒井宗雅は山田宗偏が製作した茶杓を好んで使用しています。例えば、天明七年8月17日の江戸藩邸での茶会記では、「茶杓宗偏銘小ふり」とあり、「花入れ 山田宗引」(宗偏流二世)とあります。 また、同年11月18日正午の茶会では、「松平甲斐守」(柳沢保光、1753〜1817)、「小笠原佐渡守」(小笠原長堯(ながたか)、1761〜1812)とともに、「山田宗也」(宗偏流四世)の名前があります。さらに小笠原と山田宗也のコンビは、翌年3月3日にも見ることが出来ます。山田宗也には「茶ノ時入」と記載があるので、はじめは大名たちに懐石料理が振る舞われ、シメの茶湯のときに山田宗也の登場となったようです。
なお、さらに同年12月21日には、「山田宗圓」の名前がありますが、宗偏流三世はすでに亡くなっているので、山田宗也の間違いだと考えられます。
宗偏流四世の山田宗也は、小笠原家の茶頭であるとともに、当時の江戸でも高名な茶匠として知られていた人物でした。宗偏流中興の祖とも言われています。山田宗也が酒井宗雅の茶会にしばしば登場するのは、同じ茶人として宗雅が山田宗也に尊敬の念を抱いていたからに他なりません。

この後、山田宗也が酒井忠以の日記に登場することはありませんでした。 酒井宗雅は参勤交代で姫路へ帰国し、江戸へ戻って亡くなってしまうからです。36歳の若さでした。

さまざまな芸事を極めた酒井宗雅でしたが、その晩年にもうひとつ熱中していたものがありました。それは刀鍛冶です。

 
宗雅作脇差(姫路神社蔵)
もともと祖父の酒井忠恭が、現在の姫路城南方にある護国神社に鍛冶小屋を設けたのが始まりでしたが、宗雅はその鍛冶小屋を城内に移築してしまいます。これがどのくらい異例なことかと言えば、徳川二百六十諸侯のなかで刀剣を製作した大名は何人かいますが、城内に鍛冶小屋を設けて刀鍛冶を置いたのは、じつは姫路酒井家だけなのです。
酒井宗雅作の刀剣は、現在も姫路城や姫路神社に保存されています。

しかし、酒井宗雅にとっての刀鍛冶は、趣味の工芸だけで終わりませんでした。
宗雅は、自身で焼き入れした太刀を使って、それまで絶えていた家伝の自鏡流居合の稽古を始めたのです。天明九年に姫路城内で刀剣を製作した宗雅は、翌年に江戸へ戻ると、自鏡流居合の稽古を始めました。このとき酒井宗雅は稽古相手として、少年時代に江戸中屋敷で無辺流槍術の稽古相手をつとめさせた、高橋八助充亮という江戸詰藩士を召し出します。酒井宗雅の居合の稽古相手を命じられる高橋八助こそ、姫路藩で途絶えていた無外流剣術と自鏡流居合を後に復興させる立役者となった人物です。

なお、酒井宗雅が無外流剣術に興味を示したという記録はなく、自鏡流居合のみ稽古したことは、自ら焼き入れした刀剣を使うことに意義を見出していたからだと考えられます。
無外流剣術の家元が代々の剣術指南役を勤めた土佐藩山内家では、併伝していた自鏡流居合は残らず、無外流剣術だけが、まるで将軍家における新陰流のように扱われたのに対して、酒井家では幕末まで無外流剣術と自鏡流居合が併伝していく背景を考えると、その切っ掛けは酒井宗雅の刀剣作りにまでさかのぼることが出来るのです。

酒井家における無外流剣術の復興は、次の藩主で長男の酒井忠通(ただひろ)によって行われました。


  酒井忠以公之像(姫路神社境内)
   江戸と姫路に風流の種をまいた
   宗雅の思いは、後世に続く者た
   ちに受け継がれたのである。
酒井宗雅が藩主だった時代は、田沼意次と松平定信が老中だった頃で、財政赤字の増大は深刻となり、徳川幕府の屋台骨が崩れ始めようとしていました。天災が続き世情が混乱するなかで、譜代大名筆頭という現実と、雅遊の世界の間を行き来しながら短い生涯にその才能を燃やしたのです。あり余る才能を開花しつくすには、短すぎる人生だったのかも知れません。しかし、彼の残した美意識の種は確実に次の世代に受け継がれ芽を出しました。

とくに、絵画は弟の酒井抱一に大きな影響を及ぼしたと言われ、やがて抱一の画風は「江戸琳派」と呼ばれ現代でも人気の高い近世を代表する画家になります。茶道は宗雅の師でもあった松平不昧が、宗雅の茶道具とともに受け継ぎました。
刀鍛冶は歴代の酒井家当主に受け継がれ、藩主による焼き入れは幕末まで続きます。同時に、復興された自鏡流居合と無外流剣術も藩主による稽古が続けられ、無外流居合として現代に受け継がれたのです。



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