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吸江寺をさがせ!
無外流が生まれた風景 第四回 |
もう一度、yahoo古地図で、麻布桜田町を確認しましょう。
今度は、「新版江戸外絵図」に方角を合わせて、yahoo古地図のほうを回転してみます。

「百姓町」と書いてある道を、毛利邸から松平左金吾邸まで歩くと、現在でも専称寺と三光院が同じ場所にありますので、吸江寺はその中間の、現在のナチュラルローソンの付近に存在していたと考えられます。
ちなみに専称寺は、新撰組の沖田総司の墓があることで知られています。また、この地図の松平左金吾定朝は、江戸随一の花菖蒲の研究家として著名な人物で、父親の代からの品種改良で、松平左金吾邸は未曾有の珍花が咲き江戸中の評判となっていました。彼が著した『花菖培養録』(かしょうば いようろく)は、現在でも花菖蒲研究の聖典と言われています。また、松平左金吾が収集した花菖蒲で造られたのが、現在の堀切菖蒲園(東京都葛飾区)です。
いずれも幕末の話ですが、辻月丹は、十九年間もこの道を歩いて吸江寺まで通ったのです。
ここで、ひとつの疑問が残ります。
他の地図では、「専称寺」と「正光院」に挟まれた土地には、何が記載されていたのでしょうか?
まず、「クウカウ寺」が紹介された寛文十三年以降の地図で、この場所に何が記載されているかを調べてみました。
ほとんどの地図では、「明地」「百姓地」「町」と書かれているだけで、寺院らしき記載はないのですが、二つだけ記載がある地図を発見しました。
そこには、「吸江寺」でも「クウカウ寺」でもなく、ひとつには「龍光寺」、もうひとつには「立光寺」とあったのです。
では、我々が発見した「クウカウ寺」は、「リウカウ寺(=リュウコウ寺)」だったのでしょうか?
とりあえず、地図上の「クウカウ寺」の「ク」と、「円フク寺(円福寺)」の「ク」、「松平ヲリヘ(織部)」や「イナリ」の「リ」の文字を比較して見ましょう。
クウカウ寺 
エンフク寺 
松平ヲリヘ 
イナリ 
「ク」であるのなら、もう少し文字が寝ていてもいいはずで、「リ」であるのなら、二本の縦棒はもう少し離れていてもいいはずです。
つまり、これだけでは「ク」とも「リ」とも読めてしまいますが、どちらかと言えば「リ」に近い感じがします。
おそらく、寛文十三年以降の地図の作者も、これを「リウカウ寺」と読んでしまったと考えられます。
地図製作は、自分の足で歩いて取材した情報を満載したホットでユニークなものと考えがちですが、実際は旧版をそのまま写すような手抜き作業もあったのでしょう。
その証拠に、「龍光寺」と「立光寺」というバラバラな記載をしている背景を考えてみると、「リウカウ寺」に取り敢えず当て字を用意した、という投げ遣りな製作現場が想像できます。
さらにこの「龍光寺」「立光寺」とも、元禄年間が終わると、それ以後の地図からは登場しなくなります。
これは、吸江寺が元禄十四年に渋谷に移転した事実と一致します。
そして、我々は、幕府の記録で「龍光寺」「立光寺」など、「リウカウジ」という響きから連想されそうな寺院を探しました。我々が調査した史料は、「地子古跡寺社帳」「除地古跡寺社帳」「古跡寺社帳」「屋敷書抜」「文政町方書上」「武江年表」「御朱印拝領地寺社帳」「正宝事録」などです。
これら史料からは、例えば浅草や牛込には、江戸時代に「龍光寺」と言う名前の寺院が存在した記録が確認できますが、麻布桜田町に「龍光寺」も「立光寺」も存在した事実は確認できませんでした。
以上のことから、「クウカウ寺」は「吸江寺」であったと結論付けました。
吸江寺が、なかなか発見されなかった理由の一つに、「リュウコウ寺」と間違われて地図に描かれてしまったことが災いしたと考えられます。
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