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吸江寺をさがせ!
無外流が生まれた風景 第五回 |
「吸江寺」が「リュウコウジ」と誤って記録されたとしても、それ以外のほとんどの地図で、無視されている事実をどのように考えたら良いのでしょうか?
この時代の安中藩主・板倉重形は寺社奉行ですし、板倉重形の従兄弟で本家の板倉重矩は老中を務めています。
板倉家の菩提寺の吸江寺が、「地図に載せるほど有名ではなかった」とは考えにくいです。
我々は、その疑問を解決するためには、吸江寺の歴史を調べる必要があると考えました。
無外流関連の文献を調べてみると、吸江寺については次のような記述を確認できます。
@. 吸江寺は、江戸時代初期に京都所司代を勤めた板倉重宗(周防守)の正室である玉樹院が、慶安三年(1650)に帰依して建立された。
A. 開山(初代住職)は、石潭良全(せきたんりょうぜん)である。
B. 辻月丹は、この地に延宝三年(1673)末〜元禄六年(1692)の十九年間にわたり参禅を続けた。
C. 石潭良全は天和元年(1681)に死去したが、辻月丹はその後も参禅を続け、二代神州良祇(しんしゅうりょうぎ)に偈(げ)を与えられた。
D. 吸江寺は、元禄十四年(1701)に渋谷へ移転した。
それぞれ確認していきましょう。
開山の石潭良全は、豊後大友氏の家臣・福井家の出で、京都に出て一糸文守(いっしぶんじゅ 仏頂国師)に師事しています。土佐郷土史研究の第一人者である平尾道雄によれば、石潭は上野国(群馬県)出身とのことですが、確かなことは分かりません。
一糸文守は、公家の岩倉家出身で、驚くことに、辻月丹が生まれた慶安元年(1648)には、近江の鈴鹿山麓にある永源寺に住山しています。永源寺は、現在では臨済宗永源寺派の大本山で、応仁の乱の頃には京都五山の学僧のほとんどが永源寺に移住したと言われるほど繁栄しましたが、焼失して衰退しました。後水尾天皇から一糸文守に対して、永源寺を再興するよう勅命が下り、寛永二十年に境内を再建しています。
また、近江一の紅葉の名所としても知られ、「永源寺こんにゃく」に名前が残っているほど、名物のこんにゃくは有名です。
確証はありませんが、年代から推測して、石潭良全が一糸文守に接触するとすればこの頃ですから、石潭も近江に住山していた可能性があります。しかし、辻月丹が生まれた三年後の慶安三年には、すでに江戸の吸江寺の開山となっていますから、石潭と辻月丹の近江での接触は考えられません。
辻月丹が江戸に出たのが延宝二年(1672)ですから、辻月丹は小石川に居を構えてすぐに吸江寺で参禅を始めたことになります。
じつは、石潭と辻月丹は、かなり強い信頼関係で結ばれていたと考えられています。
例えば、次のようなエピソードは、二人の強い絆を示す証拠だと思います。
@. 辻月丹が住んでいたのは、現在の小石川です。麻布まで来なくとも、途中に寺院はいくらでもありそうなものですが、あえて吸江寺を選んで、19年間も参禅したこと。
A. 辻月丹が開悟したとき、すでに石潭はこの世にはなく、辻月丹は二代神州から、石潭名義の偈(げ)を与えられます。辻月丹が依頼したことなのでしょうが、あえて石潭の名前に固執したこと。
B. 辻月丹は、享保十二年(1727)六月二十三日、 禅学の師・石潭と同月同日に遷化(せんげ:禅僧の死)しました。これは偶然ではなく、辻月丹が石潭の入滅と同月同日に固執したため、遺族が従ったのだと考えられます。それほどまでに執着したこと。
いずれも、辻月丹と石潭の強い絆を偲ばせるエピソードであることに疑いはありません。
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