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吸江寺をさがせ!
無外流が生まれた風景 第六回 |
吸江寺は、現在は臨済宗妙心寺派に属する寺院です。
開山の石潭は臨済宗の僧侶ですから、吸江寺は開山以来の臨済宗妙心寺派かと思いがちですが、そう簡単には言えないようです。
それは、吸江寺に大きな帰依をした安中藩主・板倉周防守家の宗派が曹洞宗だからです。 さらに、我々の調査では、若狭小浜藩主・酒井家でも元禄四年に吸江寺で葬儀を営んだことを突き止めており、酒井家の宗派も曹洞宗です。小浜藩は、酒井雅楽頭家の分家ですが、支族と言っても位階は四品(しほん:律令制で、親王・内親王に与えられた位階で、大名では従四位下に相当)ですし、江戸時代を通じて大老や老中を輩出した名門で、家格は板倉家より上です。酒井家の文献では、吸江寺は曹洞宗と明記されています。(左写真)
では、吸江寺は開山当初が曹洞宗で、その後に改宗したのでしょうか?じつは、そう簡単に断定が出来ないのです。
我々の調査では、奥州伊達家の支藩である、一関藩・田村家も、元禄時代に吸江寺で葬儀を実施していました。田村家の宗派は臨済宗です。
同じ時期に、曹洞宗と臨済宗の両派を名乗っていたのでしょうか?まずます謎は深まりました。
この謎は、吸江寺が地図上で無視されてきた謎と関係があるかも知れません。
いずれにせよ、妙心寺派が江戸に進出してきた事情など、妙心寺派を調べていくことは必要だと思います。妙心寺派を調べることで、吸江寺の謎に迫れるかも知れません。
妙心寺派は、京都花園の妙心寺を本山とし、末寺3,500寺を持つ臨済宗の最大門派です。
江戸に初めて妙心寺派の寺院が建立されたのは、徳川家康が豊臣政権で五大老を勤めていた頃の松源寺ですが、家康の頃には、大きな動きはありませんでした。
臨済宗妙心寺派が、江戸で急速に台頭しはじめるのは、三代将軍徳川家光の乳母である春日局の情熱によるとされています。
徳川家の宗派は浄土宗ですが、朝廷を懐柔する手段として、後水尾天皇に大きな影響力を持つ臨済宗に積極的に接近していきます。そして、妙心寺を五山並に重用することになります。
まだ京都五山の林下に過ぎなかった妙心寺派としては、勤皇禅としての朝廷の信望を利用することで、積極的に江戸進出を狙っていました。
さらに、徳川家康が帰依した南禅寺金地院の以心崇伝、秀忠が帰依した天台宗の南光坊天海といった、政僧の存在に危機感を抱いた幕府内の勢力は、それに対抗する勢力として妙心寺派に接近していくことになります。
こうした三者三様の思惑の渦で、春日局の異常とも思える情熱によって、徳川諸侯263家のうち、142家までが臨済宗妙心寺派に帰依することとなりました。
春日局と板倉家のつながりは、徳川秀忠の長子・竹千代(後の家光)の乳母として、初代京都所司代の板倉勝重が、於福(後の春日局)を推挙した頃に始まります。板倉勝重の長男で、二代京都所司代の板倉重宗の頃になると、対朝廷工作の一点に絞って妙心寺を利用していきます。板倉重宗は、於福を奔走させて、徳川秀忠の娘・和子を後水尾天皇の中宮(後の東福門院)として入内させたことでも知られていますが、このときも板倉重宗と於福は妙心寺を積極的に利用したのです。
板倉重宗が、徳川家の一使用人でしかない乳母の於福に「春日局」と命名させて、後水尾天皇に謁見させたことはよく知られています。
板倉家は開山にあたって、曹洞宗の僧侶を招聘するはずです。しかし、招聘されたのは臨済宗の石譚良全でした。板倉家が江戸で臨済宗に帰依したのは、春日局との関係からと考えて間違いないでしょう。春日局が玉樹院に、吸江寺を斡旋した可能性も否定できないと思います。
では、板倉家のように、国許では曹洞宗、江戸では臨済宗と使い分けることなど、許されたのでしょうか?
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