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吸江寺をさがせ!
無外流が生まれた風景 第七回 |
ここまでの謎を整理しておきましょう。
謎の一つは、板倉家が国許では曹洞宗、江戸では臨済宗と、宗派を使い分けていた可能性があることです。
もう一つは、麻布時代の吸江寺は、文献で見る限りは曹洞宗ですが、実際は曹洞宗と臨済宗の顔を持っていた可能性があることです。
当時の宗教の事情については、現在の我々の常識というフィルターを通して見ると、間違った結論に至る恐れがあります。
じつは、複数の宗派の菩提寺を持っていたのは、安中板倉家に限ったことではないのです。安中板倉家のように、国許と江戸で宗派が異なる例もあれば、藩主の代が奇数と偶数で宗派が交代する例や、それ以外にも、その家の事情で変わる例も珍しくありませんでした。そもそも、徳川家康自身が、浄土宗の信徒ですから京都の知恩院を永代菩提所と定めて自身も 祀られているのに、墓所は天台宗の日光輪王寺にあるあることなど、今日の常識では考えにくい例はいくらでもあります。
また、我々は、当時の民衆の価値観も、現在とは違って大らかだったと考えています。例えば、当時は僧侶が神官を兼ねることも珍しくなく、現在の感覚では節操のないことが平気で行われていました。
こうして考えれば、曹洞宗の門徒である安中板倉家が、仮に江戸では臨済宗だったとしても、異常なことではなかったのです。
安中板倉家と宗派を考える上で、徳川家光時代に定められた「参勤交代」の制度が、大きな意味を持っています。参勤交代は、諸大名や家族の江戸駐在を強制した制度ですが、同時にそれぞれの家の、江戸における香華寺(こうげじ:位牌を祀る寺院)の設定(または帰属)も命じられました。
我々は、麻布吸江寺は、当初から安中板倉家の菩提寺ではなく、あくまでも板倉重宗の正室である玉樹院が帰依しただけの寺院だったと考えています。
なぜなら、安中藩自体の実質的な誕生が、元禄十五年に板倉重形(板倉重宗の次男)が上野安中領一万五千石を加増されたときであり、それ以前に菩提寺を定める必要がないからです。
つまり、玉樹院が麻布吸江寺に帰依したのは、あくまでも個人的(と言う表現は必ずしも正しくありませんが)な帰依でした。玉樹院の次男の板倉重形が、安中板倉家を創設するにあたり、菩提寺も決めなければならないという幕府のルールがありました。
そこで、板倉重形は、母親が帰依していた麻布吸江寺に着目したのです。
麻布吸江寺をそのまま菩提寺にするには、おそらく当時の吸江寺は手狭だったのでしょう。周辺は町家だったと思われますが、これらを立ち退かせて土地を拡張するより、1.4q先の渋谷に広い敷地があったので、そこに新設したほうが容易という判断が生じたものと思われます。

吸江寺が臨済宗妙心寺派を名乗るのが、渋谷に移転した直後なのか、もっと後なのかはわかりません。
吸江寺の水谷昌史氏のお話では、確かな記録は残っていないものの、おそらく明治初めではないかとのことでした。
妙心寺の記録では、少なくとも麻布時代に妙心寺派を名乗っていないことは判明しています。他の臨済宗派を名乗っている可能性はゼロではありませんが、曹洞宗を名乗っていたことはまず間違いないと思われます。
しかし、麻布時代の住職は臨済宗で修行した僧ですから、臨済宗の顔も持っていたのです。
麻布吸江寺は、玉樹院の帰依はありましたが、それはまだ個人レベルのもので、注目されて吸江寺が地図に載るほどの規模ではなかったと考えられます。
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