|
|
 |
 |
 |
吸江寺をさがせ!
無外流が生まれた風景 最終回 |
では、麻布時代の吸江寺は、どのような寺院だったと考えられるでしょうか?
我々は院内にある、「馬頭観音」と「賽の河原」(さいのかわら)を拝見したとき、その謎が解けたような気がしました。
「馬頭観音」は、馬を供養するために街道沿いに安置されている例が多いですが、もともとは馬を供養するための菩薩ではありません。なぜ馬を頭に載せているかというと、馬が草を貪り食うように、この菩薩は人々の煩悩を貪り食う、という菩薩だからです。
「観音菩薩」が、女性の造型をした慈悲深いイメージがあるのに対して、この写真のように「馬頭観音」は、まるで明王のような怒りの形相をしているのが普通です。しかし、慈悲の深さは、実は多数の観世音菩薩の変化身の中で最も深い、と言われています。
江戸時代になると、「馬頭観音」は、馬の供養の為に祀ることが多くなります。今でも、競馬場に馬頭観音が祀ってあるのをご存知の方も多いでしょう。
一方の「賽の河原」は、 冥途(めいど)の三途(さんず)の川の河原のことで、七歳以下の子供が死ぬと行く所といわれています。
ここで子供は父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとしますが、絶えず悪い鬼に崩されてしまいます。そこへ地蔵菩薩が現れて、子供を救ってくれるのです。
「馬頭観音」の像は、菩薩の彫刻だけでなく、四文字で「馬頭観音」と刻まれた石像も良く見られます。 「賽の河原」は、子供の供養ですから、子供を守ってくれるお地蔵様を祀るのが普通です。
いずれも、寺院内で祀るというよりは、本来は地域の民衆信仰の中で生まれた物なのです。
麻布桜田町が、百姓町と言われていたのですから、この土地に農耕馬を供養する場所が必要とされたかもしれません。また、江戸中に馬場があった時代ですから、死んだ武家馬を供養する機能が、江戸中に必要とされていたはずです。
江戸時代には、死産の確率は1〜1.5割、乳児が一年未満で亡くなる確率は2割と言われていますから、それを供養する場所も必要だったはずです。
吸江寺で、「馬頭観音」や「賽の河原」が確認できると言うことは、麻布時代のこの寺院が、地域の中でそうした役割を担っていた空間であったことを意味していると考えられます。
それらを立証するため、吸江寺で実施された大名の葬儀について、もう少し詳しく検証しましょう。
大名の葬儀と言っても、もっとも古い慶安四年の板倉家の場合は、藩主ではなく「童女」となっています。
酒井家では、年齢は不明ですが「娘」とあります。
一関藩・田村家では、この時期に五人も吸江寺にお世話になっていますが、そのうち三人は幼児です。
承応 三 1654 鶴姫(享年一歳/生後一月余)
明暦 元 1655 松之助(享年三歳)
寛文十二 1672 亀姫(享年二歳)
天和 三 1683 府好(享年十四歳)
元禄 七 1694 玄蕃(享年二十七歳)
(年齢は、「数え」です)
これらのことから、次のような推論にたどり着きました。
1. 麻布吸江寺には、観音菩薩の他に、もともとは「馬頭観音」や「賽の河原」を祀られていた。武家馬や農耕馬の供養が行われており、その繋がりで板倉家の知るところとなった。
2. 板倉家で「童女」が亡くなったとき、玉樹院が帰依して吸江寺に葬った。本尊が「観音菩薩」になったのは、この頃かも知れない。
3. それ以来、大名の間では、吸江寺の噂が口コミで広がり、幼児が亡くなったときには葬儀を行うことが増えた。
4.吸江寺では、曹洞宗と臨済宗の二つの宗派を兼ねていた。それ自体は、当時の常識では異常なことではなかった。
5.元禄時代に、板倉家の分家として安中藩を新設するにあたり、香華寺を必要とした安中藩主・板倉重形は、麻布吸江寺に着目した。麻布桜田町の敷地は手狭だったので、広い渋谷村へ移転した。
田村家の場合、天和年間には乳幼児だけでなく、大人の葬儀の記録もあることから、天和年間の始めか、延宝年間の終わりには、子供専門の寺院としてではなく、大人の葬儀も行う寺院として大名には認識されていたと考えられます。
いずれにせよ、麻布時代に吸江寺で営まれたのは、せいぜい大名の家族(とくに初期は幼児専門)であり、寺院の規模から言っても、他の大名たちが法要に参列するようなことは考えられません。つまり、麻布吸江寺で大名たちと辻月丹が出会うことは、きっかけとしては考えにくい説です。
辻月丹は、麻布吸江寺で無外流を創始した後、江戸時代を通じてもっとも多くの弟子を獲得した剣豪として、時代の階段を駆け上がっていきました。残念ながら、この後の、吸江寺と辻月丹の関係を示す証拠はありません。
しかし、こうして考えてみると、時代の階段を駆け上がったのは辻月丹だけではありませんでした。
板倉家の菩提寺となり、元禄十四年に広い敷地を求めて渋谷に根を下ろした吸江寺も、同じように新しい時代の階段を駆け上がっていたのです。
(なお、ここで述べた見解は、我々近世史研究会の勝手な見解であり、吸江寺様の見解ではありません。いろいろなアドヴァイスや史料のご提供をいただいた普光山吸江寺の水谷昌史様には、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。)
Back(第七回)<< 史談往来メニュー
|
|
 |
|
|
| COPYRIGHT(C) Modern History Workshop. |