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 将軍謁見事件の真相  第三回


今度は、二回目の提出時期を考えてみましょう。

願書には、「己二月」とあるのみで、何年かは記載されていません。
通説では、「一回目が宝永六年に綱吉に、二回目がその翌年に家宣に謁見を願い出たが、将軍宣下で家宣が多忙のために許可されなかった」とありますが、この時点で大きな矛盾があります。なぜなら、家宣の将軍宣下が行われたのは、綱吉が亡くなった宝永六年(1709)であり、翌年の「宝永七年」(1710)ではありません。
また、宝永六年の干支は願書にある干支「己」 (つちのと)ですが、宝永七年であれば干支は「庚」(かのえ)です。干支の整合性という観点からも、「将軍宣下の年」という観点からも、宝永六年しか有り得ないことになります。

ちなみに、この「己」は十二支ではなく十干です。
江戸時代の干支の数え方は、我々には馴染みがないので、参考までに表にまとめておきま す。



と言うことは、宝永六年に、都合二回の願書を提出したということになりますが、これは不自然と言わねばなりません。
なぜなら、綱吉の葬儀は宝永六年の一月二十八日です。一回目の願書は家宣に提出されたのですから、綱吉の葬儀後であことは間違いありません。そして、二回目の願書は、宝永六年二月です。
つまり、ほぼ一ヶ月間で都合二回も願書を出したことになります。前将軍・綱吉の喪が明けないそんな時期に、浪人の謁見を二回も願い出るとは非常識過ぎます。

宝永六年の次にくる「己年」なら、享保四年ということになりますが、十年後に再提出というのも現実離れした話です。

謎は深まるばかりですが、とりあえず、宝永六年(◎本命)、宝永七年(○対抗)、享保四年(穴▲)くらいの気持ちで、この三年間に絞って考えてみましょう。


ここで、取次ぎ者に注目します。

一回目を取り次いだのが水口藩主で若年寄の加藤明英(越中守)で、二回目が加藤の後任として若年寄になった下野烏山藩主の大久保常春(佐渡守)でした。加藤は賤ケ岳七本槍で有名な加藤嘉明(よしあき)の曾孫で、大久保は蟹江七本槍の大久保忠員(ただかず)の玄孫です。

なぜ、加藤明英や大久保常春が取り次いだのかといえば、彼らが幕閣への取次を担当する「御用番」という役目だったからです。この「御用番」というのは、大名からの相談を幕閣に取り次ぐ担当者で、主に老中や若年寄から選ばれ、月番の交代制でした。若年寄の加藤明英の場合は、一年に四回ほど「御用番」になります。何年何月に誰が「御用番」だったのかは、幕府の公式の記録で簡単にわかります。右に参考に貼ったのは、宝永五年十二月の「御用番」の名簿です。土屋相模守(老中)の次に加藤越中守の名前があります。

では、大久保常春が御用番となるのはいつからかと言えば、正徳三年(1713)からなのです。 宝永六年(1709)、宝永七年(1710)の頃は、まだ無役で佐渡守さえも受任していませんでした。

つまり、二回目の願書は、大久保常春が「御用番」となって以降の、享保四年(1719)しか考えられません。

酒井忠挙は、なぜ加藤明英から大久保常春に取次者を乗り換えたのか考えてみましょう。


徳川家宣画像(徳川記念財団所蔵)
加藤明英は、酒井忠挙の後任として寺社奉行になった人物で、酒井とはとても親しい大名でした。この関係から、嫡子の加藤嘉矩(よしのり)は、辻月丹に入門して無外流を学んでいます。官吏としても優秀だったようで、綱吉政権では重く用いられていました。しかし、家宣には嫌われて遠ざけられ、正徳元年(1711)十二月十二日に隠居し、翌年一月二日に狂死します(間部日記)。つまり、加藤が健在であれば引き続き依頼したはずなのに、正徳元年に隠居してしまったため依頼できなかったのです。もし、宝永六、七年に取り次ぎを依頼したのであれば、加藤がまだ現役なのですから大久保常春の出る幕はありません。

ここまでわかれば、将軍は簡単に特定できます。
享保四年は、「暴れん坊」の八代将軍吉宗の時代です。

通説では、二回目の願書にある「御先代」のことを、「先代の将軍」と解釈してきました。「先代の将軍」、つまり一回目の謁見相手が六代将軍徳川家宣であれば、二回目は、七代家継になってしまいます。
ここが間違いなのです。
この「御先代」とは、前将軍の意味ではなく、干支が一つ前の年という意味なのです。この場合は十二支ではなく十干ですから、「十年ひとむかし」というように、十年前、つまり一世代前という意味です。


ここまで検証してきた結果をまとめてみましょう。

「一回目は宝永六年(1709)、六代将軍徳川家宣に御目見得願を提出したものの不成功(家宣死去により)。

 二回目は、享保四年二月(1719)に八代将軍徳川吉宗に御目見願を出したが不成功。」


というのが真相なのです。

 

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