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プロジェクト・エックス
将軍謁見事件の真相 第六回 |
しかし、運命とは皮肉なものです。
将軍家継が亡くなり、享保元年(1716)、紀州藩主の徳川吉宗が八代将軍を継承しました。
もちろん、酒井忠挙にとって徳川吉宗は接点のない人物でした。
ところが、徳川吉宗は酒井忠挙に興味を持っていました。
まず、徳川吉宗は将軍になってすぐ、享保元年七月五日に、隠居していた酒井忠挙と小笠原長重をそろって江戸城に召します。「有徳院殿(吉宗)御実記」によれば、このときの酒井忠挙は、「将軍の親政、冗員の淘汰、風俗の矯正等の事を極信す」とあります。綱吉以来三十年間続いた側用人の政治を止めて、将軍の親政を進言したのです。
徳川吉宗は将軍就任直後から、「前官礼遇」として老中経験者を江戸城にしばしば呼び出していますが、酒井忠挙のように頻繁に意見交換をした例はきわめて稀です。まして酒井忠挙は老中経験者ではありません。譜代大名筆頭という家柄に徳川吉宗が注目したのでしょうか?それもあるでしょうが、酒井家と並んで、譜代筆頭のツートップの一翼だった彦根藩井伊家では、大老まで経験した井伊直興(なおおき)が一度も呼び出されていないことから考えると、徳川吉宗は酒井忠挙個人になんらかの興味を抱いていたとしか考えられません。
幕府の記録である「酒井忠挙論時弊答吉宗之詰問」(全二巻)には、徳川吉宗と酒井忠挙の会話だけでなく、二人の書簡もすべて列記されていますが、ここで徳川吉宗が酒井忠挙のことを「もう少し若く健康であれば、毎日でも呼んで政治を論ずべき者」と評していることは特筆に値するでしょう。
ちなみに、酒井忠挙がそれまでで最後に将軍に単独面会したのは、宝永四年十一月七日に、五代将軍綱吉に隠居の挨拶をしたのが最後です。六代家宣にも七代家継にも単独での謁見はしていません。ですから、十年ぶりに将軍に呼び出されたとき、一番に驚いたのは酒井忠挙自身だったのかも知れません。
さらに半年後、享保二年三月十三日にも酒井忠挙を呼び出しました。酒井忠挙から出された「将軍親政」という宿題に答えるためです。徳川吉宗は、「生類憐れみの令」で禁止されていた、「鷹狩り」を三ヶ月後に復活させると打ち明けます。では、「鷹狩り」と「将軍親政」とどんな関係があるのでしょうか?
将軍親政を実現するには、将軍自身のリーダーシップはもちろん、カリスマ性が不可欠です。これまでの将軍は、すべて二代将軍秀忠の子孫というブランドがありましたが、徳川吉宗にはそれすらなかったのです。

徳川吉宗には、秀忠の子孫というブランドがなかった |
そこで徳川吉宗が思いついたことは、徳川家康を見本にするというパフォーマンスでした。自分がやることは、すべて権現様(徳川家康)を見習ったものだと宣言をすることで、家康のカリスマ性にあやかろうとしたのです。そのひとつとして、家康が好んだ「鷹狩り」に注目したわけです。しかも、「鷹狩り」とは今日で言うところの、一種の軍事パレード的な示威効果も持っています。天下に自身のリーダーシップをアピールするのにうってつけでした。この後、徳川吉宗は生涯に三百八十八回もの「鷹狩り」を続けることになります。
さらに翌年、享保三年一月七日には、また酒井忠挙と小笠原長重の二人を登城させて話を聞いています。
おそらく、このとき酒井忠挙と小笠原長重には、十年前の辻月丹謁見の夢が再燃したのではないでしょうか?
そして、翌年二回目の御目見得願へ結実したと思われます。
ちなみに、徳川吉宗の「鷹狩り」の総責任者が大久保常春です。酒井忠挙は、大久保常春ら幕閣に根回しした上で、辻月丹の御目見得願書を託したのです。
徳川吉宗が謁見を許可しなかった理由はわかりません。
許可を待っていたところ、享保五年に酒井忠挙が死去したため計画が中止になったと考えるのが正しいでしょう。
徳川吉宗には武術好きなイメージがありますが、新陰流との関係だけを見るとひじょうに特異な将軍なのです。歴代の将軍の中で、将軍時代に新陰流の稽古はおろか、上覧演武すら見たことがないのが、七代家継と八代吉宗だけなのです。家継は子供のまま短期政権で亡くなったので仕方がないとしても、徳川吉宗が三十年間の将軍時代に一度も新陰流に係わっていないことは、かなり特殊な将軍といえます。(吉宗自身は、紀州時代に九歳から新陰流の稽古をはじめており、自分の息子たちには稽古をさせています)
つまり、徳川吉宗は将軍の権威高揚に新陰流のネームバリューは利用価値がないと考えていたわけで、ここまで合理的に考える人間に、浪人の謁見など望むべくもないのかも知れません。
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