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無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第10回

  〜 その剣風は「先々の先」 〜


辻月丹自身は、無外流兵法(剣術)に大きな影響を与えた剣術家として、山口卜真斎のほかに、「無外流祖・辻月丹物語 青雲の章」でも紹介した磯上不比等を生涯にわたって忘れなかったそうです。しかしながら、磯上なる人物の正体はよくわかりません。

また、辻月丹が廻国して学んだ新陰流、冨田流、中条流、などの影響も受けたでしょうし、母流である山口流に影響を与えた天流、鞍馬流、香取流、新当流、鹿島心流などの影響も間接的には受けているでしょう。
それ以外にも、たとえば山口卜真斎が書いたと伝えられる絵目録には、足運びを説明するときに「佛車刀等之如ク」という部分が確認できます(右図)。これは、動きから察すると一刀流の「払捨刀」(ほっしゃとう)の当て字と考えられます。山口卜真斎は一刀流からも影響を受けていたと考えて良いでしょう。

辻月丹は、32歳で「一法実無外」の偈を授かり無外流兵法(剣術)を開いたのち、45歳で心を不動にする術を「自得した」と書かれています。また、一説には「千遍遣い」を編み出したのはこの頃とも言われています。
この自得がその後の無外流の剣風に影響していることは明白で、例えば月丹の曾孫・都治資幸は流祖によるこの頃の無外流の変化に関連づけて、自身のことを次のように口述しています。


四十三歳トヤランノ時、我(都治資幸)モ此ノ頃、漸ク兵法ニナリタルト思ワレシ

つまり、辻月丹が45歳で自得したのと同じように、都治資幸は43歳頃に「漸ク」(ようやく)本物の兵法(剣術)に到達できた、と述べているのです。

この言葉は、師匠が弟子に対しての口伝ですから、剣術を極めるには長期間の努力が必要だと教えたかったのだとも感じられますが、じつは無外流の剣風を考える上で貴重な証言なのです。

元禄年間以降の無外流は、はじめから試合をして敵には体当たりも厭わないといった、激しい剣風で有名だったことがわかっています。いっぽう、悟りを開いた人間が到達する剣術といえば、むしろ手数の少ない枯れた剣風を想像しがちです。激しい剣風に到達したとは、とても想像できません。

ここで、辻月丹の剣風が、どのように史料に記載されているのか着目してみましょう。

江戸時代の随筆「異説区」(いせつまちまち;「日本随筆大成」収蔵)によれば辻月丹の剣風の特徴として「
先々の先」だったと記載されています。

辻月丹ナド、カヨウニイカメシクアラザリシ。仕合ヲスルニ、シナエ(竹刀)ヲカツギテ、スツトイツテ打ツニ、ナルホド先々ノ先ニテアリシナリ。気ノ満チヌルニハ、打チ込ム時、シナエノ先ガフクレシトナリ

「先々の先」であれば、心法に傾倒した結果、野獣のような激しい剣風を確立したという矛盾を説明できます。
「先々の先」とは、いくつかの解釈はあるものの、ここでの意味は敵の攻撃を予測して先制攻撃する剣風のことで、敵の動きを封じるためには敵の懐にもぐり込んだり体当たりすることも厭いません。
辻月丹は、敵の動きを事前に予測する能力を磨くために、心法を極めたのだと解釈できます。単純に考えれば、「先々の先」とは敵よりも早く攻撃するわけですから、無外流の剣風が以前にも増して激しく荒々しいものに変化したのでしょう。

無外流が「先々の先」の剣術だったことは、他にもいくつかの史料にそれらしい記述を確認することができます。


    安政3年の地図から
  辻月丹の足跡は、高輪・品
  川近辺に多数残っている。
  高輪には伊達家の屋敷が
  密集し、また都治家の菩提
  寺となる如来寺がある。品
  川では、東海時やその塔
  頭に禅を学びに足を伸ば
  している。また、画面中央
  下にある白い正方形の土
  地は、土佐藩江戸下屋敷
  である。坂本龍馬が江戸に
  留学していたときの滞在先
  としても有名な場所である。
例えば、土佐藩出身者で初めて辻月丹の内弟子となった森下権平の証言です。森下は18歳から23歳まで土佐で真新陰流を学んでから江戸の辻門下に加わります。森下によれば、それまで「待ノ剣法」が身に付いていたところに、「先々の先」を学ぶことになり、かなり戸惑った様子が窺えます。

また、その数年後の話としては、ある人が「無外流ハ待流ナリ」と評したことを人づてに聞いて、森下が抗議に出かけたという逸話が残っています。相手の誤解が解けたあとに、森下権平はつぎのように言ったそうです。


「若シ待テスル流トノ仰セナラバ、我等モ聊(いささ)カ所存アッテ参リタリ。」
(もし待ちの流儀なんて仰せでしたら、こちらとしては、たたでは済まさないつもりで来たのです)

今日の価値観からすれば、剣風の誤解くらいで命懸けになるのは理解に苦しむところですが、そこまでして森下権平が守ろうとしたものがあったのでしょう。
おそらく、「待テスル流」という言葉には、臆病な流派という侮蔑の意味が含まれていたか、「待つ流」は「末流」にも繋がるニュアンスなのかも知れません。

「先々の先」を示すもうひとつの事例は、辻月丹の内弟子で横井軍次という藤堂家家臣の証言です。藤堂家の三代藩主・藤堂高久の正室は酒井忠挙(ただたか)の同腹の姉・亀姫で、藤堂高久は酒井忠挙にとっては義兄になります。
横井軍次は、辻月丹が品川の東海寺の寺院内にある塔頭に禅を語りに出かけたときに、師匠である月丹に同行しました。そこで、師匠の用件が済むまで待っていると、僧の一人から質問をされました。


「貴方ノ御流儀ニ先々ノ先ト申シ事有ヨシ。其レハ如何ナル所ヲ打チ候哉。」

すると横井軍次は、質問が終わるか終わらないうちに、僧の頭を扇子で思い切り叩きながら、

「是ニテ候」

と答えたと云うことです。

この種の話は、幾分笑い話のように伝えられていますが、じつは無視できない情報を含んでいるものです。この時代の無外流の特徴が「先々の先」、つまり荒々しい剣法流派として僧侶にも有名だったことを意味します。それも、相手より先に攻撃を仕掛けるという単なる動作の上のことだけではなく、相手の心の動きを見透かして打つ、という攻め以前の能力が問われる剣法だったのです。

無外流兵法(剣術)は、延宝8年に石潭良全に導かれて創始された「先々の先」が特徴の剣法で、石潭の死後は一人で修行した結果、元禄6年には「自得」してさらに進化た、と考えるのがもっとも妥当な解釈のようです。





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