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無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第11回

 〜 多賀権内の自鏡流居合術 〜


今日、無外流と言えば居合の流派として知られていますが、辻月丹が創始したものは、もちろん兵法(剣を中心にした武術全般)の一派です。
無外流に居合が併伝されるのは、辻月丹よりもずっと後の寛政年間の播磨姫路藩・酒井家において、自鏡流居合という土浦藩の居合流儀を取り入れてからの話になります。


    歌川広重 「下谷広小路」
     (名所江戸百景より)
  下谷広小路とは、現在の上野
  広小路のことである。辻月丹や
  多賀盛政の住んでいた下谷は、
  将軍が上野寛永寺に参詣する
  通り道だったため、古くから街
  道が整備され町並みが開けて
  いた。この絵の右側の商店「い
  とうや呉服店」とは、現在の松
  坂屋の前身で、奥は上野の森
  である。
自鏡流居合術は、元水戸藩士だった多賀権内盛政が、江戸の下谷(現在の外神田から御徒町付近)に道場を開いて広めた居合流派です。

通説では、辻月丹が多賀盛政に自鏡流居合を学び、弟子たちにも学ばせたとされますが、これを傍証する史料は見つかりません。とくに、弟子たちにも学ばせたのであれば、土佐藩にはその痕跡が残っていて然るべきで、断片すら確認できないのは不思議なことです。山口流剣術の史料は土佐藩に残っているのに、自鏡流居合術の史料が一切見つからないのは、弟子たちに学ばせたという事実はなかったと判断できます。

辻月丹が学んだ事実も検証は出来ませんが、我々は辻月丹と自鏡流居合の接触があったとは考えています。
なぜなら、寛政年間に酒井家で居合術を取り入れるにあたり、田宮流をはじめ著名な居合流派は数多存在していたにもかかわらず、よりによって自鏡流というマイナーな流派に目をつけたのは、新規採用というよりも、むしろ以前に存在して失伝したものを復興したと考えた方が納得できるからです。
また、同じ時代に辻月丹と多賀盛政は下谷に住んでおり、まったく接触がないと考えるほうが不自然です。史実かどうかはともかく、辻月丹が下谷車坂ではじめて芸者を見たという逸話が残るほど、月丹と下谷の関係は深かったようです。
しかし、多賀道場に弟子たちを居合修行のために通わせたという説は、かなり怪しいと考えます。

多賀盛政は天和3年(1683)3月27日に水戸藩を脱藩し、江戸下谷に道場を開きました。脱藩直後から、すでに自鏡流居合術を名乗っていたかは不明です。
「水戸家監察書記案」「水府系纂」によれば、多賀は水戸藩を追放されており、このときの追放は2度目だそうです。罪状は「不調法ノ仕方ニツキ」ということで、詳細まではわかりません。

多賀権内盛政は、水戸藩剣術指南役だった和田平助正勝の高弟の一人でした。佐野惣内、三浦文内とともに、「和田三内」と呼ばれていました。ちなみに、佐野惣内は讃岐高松藩に和田の居合術をはじめて伝えた人物です。
多賀の学んだ新田宮流抜刀術は、和田平助が水戸藩士・朝比奈助右衛門貫泰(無道)から学んだ田宮流に、水野新五左衛門重治(柳滴斎)の柔術・剣術・捕手術・手裏剣術・棒術を取り入れ、また交流のあった武芸者の技や自身の工夫を取り入れて完成させた居合兵法で、和田の死後、水戸藩では御留流とされていたそうです。

和田平助の数々のエピソードと、その悲劇的な結末はよく知られていますが、弟子に対する厳格な稽古も有名です。長男の和田金五郎直勝には、睡眠中も斬り掛かるといった一切の隙も許さない狂気じみた稽古を課し、金五郎は間もなく病について天和元年(1681)3月8日、21歳で亡くなりました。その狂気の部分は、弟子の多賀盛政にも受け継がれたのでしょうか?多賀も素行が悪いということで藩を追放になります。一度は復藩が認められましたが、やがて二度目の追放となり、水戸に戻ることはありませんでした。


多賀が追放されて半年も経たない元和3年(1683)9月11日、今度は和田平助が「思召有之」という罪状で追放され、後に切腹しました。享年59歳でした。「思召有之」とは藩主である徳川光圀の一存で処断されたことを意味しますから、直接の罪が何だったのかは現在でも不明です。同じ時期に、朝比奈助右衛門貫泰の家督相続問題で、藩内に粛正とも言うべき人事処分が行われており、この事件に和田平助が関与していたという説が有力です。とくに注目するのは、和田平助の次男・介次郎はまだ幼児だったにもかかわらず、平助に連座して処刑を命じられていることから考えて、光圀の平助に対する憎悪の深さがわかります。(ただし、水戸光圀は講談や時代劇のイメージとはかけ離れた人物だったようで、これについては別の機会に紹介するつもりです)

多賀盛政も数多くのエピソードで知られています。ここでは江戸に出てからのエピソードを「桃蹊雑話」からひとつ紹介しましょう。


          安政3年の地図から、湯島、外神田周辺
  鈴木伝右衛門の屋敷があった小石川御弓町は、現在フクダ電子(株)
  があり、下谷長者町は、現在はJR秋葉原駅近くである。
  内神田の地図下側には大手門前の酒井家上屋敷があり、小石川に
  は下屋敷があった。さらに小石川には水戸家、松平大学頭家、本郷
  には前田家、小笠原佐渡守家、榊原家、阿部伊勢守家、下谷には藤
  堂家、土浦藩土屋家など、辻月丹と係わりのある大名屋敷が集中し
  ていることがわかる。
  また、同時期に下谷に道場を開いていたのが自鏡流居合術の多賀
  盛政である。

多賀盛政が住む下谷周辺は寺院が密集した地域で、境内では大道芸などの興行も盛んでした。ここで、多賀は居合抜きの芸に出くわしたのです。
芸人は、風呂桶の高さと同じ長さの刀を持って風呂桶の中に入り、観客に風呂の蓋を押さえてもらいながら、中で刀を抜くという不思議な芸でした。文章だけでは、どこが面白いのかよくわからない芸ですが、当時はこれが大評判でショウビジネスとして成功していたというのですから、その事のほうが不思議な気もします。
誰が蓋を押さえても、芸人は刀を鞘から抜いてしまいます。
芸人は、今度は観客だった多賀盛政に蓋を押さえるように依頼します。
この芸の種明かしは、蓋を押さえている間に抜刀しているわけではなく、観客が蓋を開けて蓋の後ろに芸人が隠れる一瞬に抜刀して、さも風呂桶の中で抜刀していたかのように見せることでした。多賀盛政は、この芸のカラクリを見抜いていました。蓋を開けて芸人が抜刀する瞬間に、多賀も蓋をずらして芸人の抜刀を邪魔したということです。
これを見破った多賀を、さすがは居合の達人とも感じますが、こんな大人気ないことをするから2回も追放されるのだ!という気がしないでもありません。

土佐藩には自鏡流の痕跡が残っていないことから、辻月丹が弟子たちを修行に通わせたという説は信ずるに足りないと前述しました。
また、無外流創始が延宝8年(1680)で、多賀盛政が江戸に道場を開くのが天和3年(1683)ですから、少なくともごく初期の無外流には自鏡流の影響は皆無だったと考えて良いでしょう。

では、無外流と居合は無関係だったのでしょうか?




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