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【坂崎出羽守直盛】
大阪の陣で千姫を大阪城か
ら救出したとされる人物。も
ちろん嘘である。徳川家康が、
孫娘の千姫を救出した者に
は千姫を与えると約束したの
に、それが反故にされてしま
い(これも嘘)、千姫は本多
忠刻に嫁ぐことになった。
逆上した坂崎は、その輿入
行列を襲おうとしたが、島田
利正と柳生宗矩に阻止され
た。











杉田の名前は、伝書によっ
て「庄左衛門」「庄左右衛門」
「庄右衛門」の3種類がある
が、我々は「庄左右衛門」で
統一している。とくに根拠は
ない。
ただし「庄右衛門」は、間違
いだろうと考えている。


















































































【明日誰かに話したくなる、
歴史トリビアクイズ!!】

問題
八代将軍吉宗の時代、享保
年間を通して、江戸町奉行
所でいちばん多く受理され
た仇討の申請は、次のなか
のどのタイプでしょう?

@.親の仇討を息子が申請
した

A.兄の仇討を弟が申請し


B.武士以外の階層(町人、
農民)が申請した

C.妻の浮気相手を殺害
するため、寝取られた夫が
申請した

D.親兄弟の仇討を、妻や
娘など女性が申請した


正解はこのページのどこか
にあります。





























































































正解はC
享保年間の仇討申請のなかで
、受理された半数が、妻の浮気
相手に復讐するというパターン
です。これを「妻仇討」「女仇討
」と呼びました。この時代は姦
通が認められていなかったた
め、理論上は「妻が強姦された
」ということで、仇討の対象とさ
れたのです。
ちなみに、ABDのタイプも江
戸時代には珍しくなく、従来の
「卑属による仇討は認められな
かった」という説とは異なること
が分かります。「鍵屋の辻」に
しても「赤穂事件」にしても、当
時の感覚では仇討以外の何物
でもなかったのであり、時代劇
によくある「兄による弟の仇討は
認められない」という台詞が時
代考証を無視した大嘘であるこ
とがわかります。

無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第13回

 〜 その時 歴史が動いた
        杉田庄左右衛門  〜


俗に「酒井党」と呼ばれる、大老・酒井忠清のシンパのひとりに、島田美濃守守政(1624〜1699)という知行5千石の旗本がいました。

   島田守政の屋敷は、明暦の大
   火後に神田明神隣に移設し、幕
   末まで同地にあった。
   
島田氏は美濃源氏嫡流の土岐氏の末裔で、戦国時代末期は三河島田に住していました。
島田守政の父・利正(従五位下弾正忠)は、江戸幕府開府以前より徳川秀忠に遣え、秀忠が2代将軍になってからは、筆頭年寄・酒井忠世の下で江戸南町奉行となります。ちなみに、時代劇や講談で島田利正が必ず登場する場面があります。それは、坂崎出羽守が千姫の輿入行列を襲うのを、町奉行の島田が柳生宗矩とともに阻止するシーンです。
その子島田守政も、長崎奉行などを歴任し、寛文7年(1667)には大老・酒井忠清の下で江戸北町奉行に就任していました。

延宝6年(1678)11月22日、北町奉行の島田守政のもとへひとりの浪人が仇討願の申請に訪れました。その浪人は杉田庄左右衛門と名乗り、武州小河内(おごうち)河野村出身で、最近まで上方に在住していたものの、父親の仇討のために江戸にやって来たと言います。江戸では、麹町9丁目の宿に滞在しているとのことでした。

杉田庄左右衛門が北町奉行所に提出した仇討嘆願書は、幕府の公式記録として現在でも写しが残されています。町奉行所の帳簿である「公儀御帳」のなかに、次の記述があります。

浪人杉田庄左衛門申上候、私親杉田治太夫ト申者、武州三田領小河内川野村ニ浪人ニ而罷在候処、去年辰霜月十八日之夜、浪人浜名素源八、伝蔵、佐五右衛門、右三人治太夫方江押込儀、治太夫ヲ討、即時ニ右三人立退申候、其節私儀上方ニ罷在候而、頃日御当地江罷越シ、以来見合次第ニ、親之敵ニ御座候間、許可申候、為後日申上候由、右ノ庄右衛門(ママ)申来候

杉田の父親・治太夫は、延宝5年9月18日の夜、三人の男たちに押し込まれて殺害されたのでした。事件当時は畿内に滞在していた息子の杉田庄左右衛門が、1年後に江戸に来て親の仇を見つけたので、仇討の許可を下さい、という願書です。町奉行所に記録があるということは、この嘆願が受理されたことを意味します。

では、杉田庄左右衛門の仇討の結果はどうなったのでしょうか?

これも、町奉行所の「敵討帳」という帳簿に残っていました。杉田庄左右衛門は、同年9月25日に仇3人のうち伝蔵を「麹町御門土橋」の堀端で見事討ち果たしたと書かれています。「敵討帳」には、

敵三人之内伝蔵ヲ、麹町壱丁目土橋御堀端ニ而、庄右衛門(ママ)宿麹町九丁目七兵衛、五組伝左衛門召連、申来候、

と、その結果についても生々しく記述されています。他の2人については記述がないので、討ち損じたのでしょう。なお、「麹町御門」とは、現在の半蔵門のことです。この時代には、まだ半蔵門という呼び方はされていませんでした。
ちなみに質の悪い時代小説では、半蔵門の語源を、「この近くに服部半蔵の屋敷があった」からだという珍説が展開されていますが、もちろん大嘘です。江戸時代を通じて、この付近に服部半蔵の屋敷が存在した事実はありません。寛文年間に、麹町に「服部玄蕃」の屋敷があったことを勘違いしての珍説と考えられますが、服部半蔵とは無関係です。まして、服部半蔵を「御庭番の頭領」などというのは、馬鹿馬鹿しくて話になりません。


        江戸方角安見図(延宝7年)から麹町1丁目付近
   仇討の翌年に出版されたこの地図を見ても、半蔵門ではなく麹町
   御門という名称だったことがわかる。仇討の現場は、矢印の位置で、
   「土ばし」と書かれた堀に突き出た部分。なお、この図にも記述があ
   る松平越後守こと松平光長は、この翌年に辻月丹の人生に少なか
   らず影響を与えることになる。

杉田庄左右衛門は、町役人の伝左衛門と、宿泊していた麹町9丁目宿の主人・七兵衛を伴なって、町奉行所に本懐を遂げた報告に現れたのでした。

我々は寛文年間〜嘉永年間までの、江戸町奉行所に申請された仇討嘆願の記録をすべてチェックしました。圧倒的に多くは、申請のみで結果が記載されていないことから、それらは成功はしなかったのでしょう。あるいは、体面上は願書を出したものの、本人に仇討の意志がなかったのかも知れません。
杉田庄左右衛門のケースでは、申請から3日後に本懐を遂げているということは、嘆願前から相手の居場所を捜し当てて事前に周到な準備をしていたものと考えられます。

では、杉田庄左右衛門は、辻月丹から居合の技を学んでいたのでしょうか?
これら公式記録では、辻月丹の存在を確認することは出来ません。ですから、仇討の杉田と辻月丹の高弟の杉田が同一人物であることを立証する証拠は存在しないのです。しかし、我々はこの2人の杉田が同一人物であることは間違いないと考えています。

その理由は三つあります。
そのひとつは、辻月丹を最初に見いだしたのが、北町奉行・島田守政の主人筋とも云うべき関係にあった酒井雅楽頭忠挙(この頃は河内守忠明)であることです。
二つめは、島田守政とは縁戚でもあり、職務上の繋がりがある腰物奉行の高林昌近が辻月丹に入門したことです。
そして、三つめとして、辻月丹が亡くなってから54年後の寛政2年(1790)に書かれた「撃剣叢談」に、この仇討をモデルにした話が記述されているからです。


       江戸時代の仇討番付
   番付好きで、かつ仇討好きの江戸町
   民のために、当然のように仇討番付
   も多数存在する。「忠臣蔵」や「伊賀
   越」が仇討だったかはともかくとして、
   宮本武蔵の巌流島の決闘も、仇討と
   して語られていた歴史がある。
「撃剣叢談」は、岡山藩士の三上元龍が、明和年間頃〜寛政2年(1760〜1790)までに江戸で見聞きした剣術流派や剣術家を紹介したものです。無外流で言えば、都治文左衛門資賢の頃で、江戸でもっとも無外流が盛んだった時期に書かれたのです。全体を読んで感じることは、かなり真面目な内容で、ここで紹介された記述をすべて真実だとは考えていませんが、当時の剣術界のようすが生々しく描写されている貴重な史料と言えます。この中の「辻無外流」に仇討ちの話が紹介されています。

「撃剣叢談」のストーリーを要約すると、「軟弱なる兄弟」が親の仇討のために、小石川に住んでいた剣術家・辻無外に入門するところから始まります。修行も進んだある日、「軟弱なる兄弟」は高田馬場で仇に偶然出くわし、それを聞いた辻無外が助太刀に駆けつけ、兄弟は首尾良く本懐を遂げます。これが切っ掛けで、無外流の名前が江戸中に広まることになるという話です。


    「花見の仇討」「たぬき」
  立川談志 ひとり会 落語CD
  全集より。花見客たちを驚か
  すはずの、余興の仇討芝居
  が、芝居ではなく本当の仇討
  になってしまって...。
「撃剣叢談」の話は典型的な仇討物のパターンで、日本三大仇討のひとつである「曾我兄弟」の物語がベースになっているのは一目瞭然です。落語の「花見の仇討」に登場する「巡礼兄弟」に見るまでもなく、兄弟が苦労の末に親の仇を討つというフォーマットは、仇討物のお約束のようなもので、例えば実録物である荒木又右衛門と渡辺数馬の義兄弟の「鍵屋の辻」「伊賀越仇討」にしても、講談で登場するときには「曾我兄弟」のような話に作り替えられるわけです。

そう聞くと、「撃剣叢談」も講談まがいの突拍子もない作り噺という印象を持ってしまいそうですが、ところがこの本全体を読めば、かなり真面目な研究書でもあり、「辻無外流」だけホラ噺を書くとは考えられません。おそらく、当時の無外流一門で語り継がれていた実話だったのでしょう。そして、真相は「軟弱なる兄弟」ではなく、杉田庄左右衛門が主人公だったのです。

ただし、辻月丹が無外流を創始するのは、杉田の仇討のの2年後の延宝8年6月ですから、杉田庄左右衛門は無外流創始以前から月丹に入門していたことになります。
また、「撃剣叢談」には居合の技などはどこにも登場しません。小説にあるような「走り掛かりの一太刀」で本懐を遂げるというのは、少々作り過ぎたようです。

ここまで分かれば、辻月丹の住まいが「麹町9丁目」という伝承や、都治記摩多と杉田庄左右衛門が同一人物であるという説が、どうして形成されたのかが推察できると思います。


              明治初年頃の半蔵門
   この写真の中央辺りが「土橋堀端」になる。半蔵門は、山王祭の
   山車行列が江戸城内に入るときにも使われた門としても有名。


まず、都治記摩多と杉田庄左右衛門が同一人物でないことは容易に理解できます。
都治記摩多は、「雑話筆記」によれば確かに麹町に在住していましたが、宝暦12年(1762)に死去していることも事実です。杉田庄左右衛門の没年は不明です。ただ、杉田が都治記摩多であるなら、仇討当時の延宝6年の杉田の年齢が20歳だったと仮定しても、宝暦12年には105歳という年齢になってしまうのです。つまり、この二人は同一人物どころか、孫ほども年齢が離れているのは明白です。

また、都治記摩多が麹町に住んでいたことも確かで、杉田の宿が麹町9丁目にあったことから、これが辻月丹の麹町9丁目在住伝説になったと考えられます。

そして、この仇討の成功が島田守政から幕閣に報告されたのは間違いなく、ここから辻月丹の運命が大きく旋回していくことになるのです。



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