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辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第15回

 〜 一触即発!
      無外流 vs 香取流 〜


前述した都治資幸の口述のなかには、立技だけでなく座技の重要性と、一人演武形式の稽古の重要性を説いた部分があります。これ自体は居合に限定した話ではありませんが、まさしく現代の居合と通じるものです。

稽古場又ハ常ノ座上ニテモ只一人立テ腹張リ腰ヲスヘ摺足シテ(中略)。必ズシモ相手ノ有無ニカゝハルベカラズ。

少なくとも、無外流の稽古で、一人演武形式で抜刀の稽古が行われたことは間違いなく、しかも座技まで稽古していたようです。しかしながら自鏡流居合として稽古していたわけではなく、あくまでも無外流剣術の体系のなかで実践されていたのです。

無外流では「刀劔ノ寸尺ヲ限ルコトナシ」として、刀身の長さには固執していない点は、じつは無外流の剣風を考える上でひとつの鍵になります。
宮本武蔵の「五輪書」の例を出すまでもなく、たいていの剣術家は道具としての刀剣については見識を持っていて、刀身の長さなどに流派特有の制約を課しています。それは、流儀の技や理合いを実現するためには、条件に合った道具のほうが好都合という理屈からです。伊藤一刀斎の備前一文字、宮本武蔵の伯耆安綱や正宗、柳生連也の泰光代、のように、この流派ならこういう刀剣、この剣豪ならこの刀工、というイメージが辻月丹にはないのです。

          「新刀 名釼鑑」(国立国会図書館所蔵)
   16〜17世紀頃に活躍した124人の刀工を、格式と価格の順で番
   付にしたものである。東の大関は津田助廣、西の大関は井上真
   改、とある。辻月丹が井上真改を帯刀していたという伝説は、井
   上真改が最高ランクだったからこそ作られた話と考えられる。

辻月丹が帯刀していたのは、大阪新刀の元祖・井上真改だったと書いた文献がありますが、これは作り話でしょう。なぜなら、月丹の孫の都治文左衛門の時代に、月丹の遺品として木刀と前当てしか残されていないと記述があるからです。井上真改は当時の刀剣番付でも西の大関を張るほどの人気刀ですから、もし月丹が所持していたのであれば残らないはずがありません。

  鬼平犯科帳(池波正太郎)
  第2巻(文春文庫)に登場
  する「妖盗葵小僧」で、長
  谷川平蔵は井上真改で一
  刀流の技を披露している。
ちなみに、池波正太郎「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵の愛刀と言えば、粟田口国綱が有名ですが、凶悪犯が相手の捕り物では、堅剛な柳生拵えの井上真改を持ち出すのはよく知られています。

辻月丹は、刀剣の知識は豊富ではあったものの、自分や弟子が使う道具としての刀剣には無頓着だったと考えられます。そして、無外流が刀身の長さに無頓着な流派だったことが、じつは無外流の剣運びが単純な動作だったことを意味しているようです。

さらに面白いのは、刀剣の長さはどうでも良いとしながら、それでも長さのアドヴァイスが欲しい弟子のためには、長さの判断材料として、

麻上下ヲ着シ懐中物ヲ入レ或ハ印籠杯ヲモ下ゲ、ナオ大小ヲ指其ノ上ニテ自在ニ抜キテ支障リナキヲ相応ノ寸法トスベシ

と、抜刀のやり易さを基準に決めなさいと言っていることです。しかも、懐中に物を入れて印籠を下げた姿でシミュレーションするというのは、無外流では抜刀が重要な位置を占めていると同時に、平時を戦場のように想定した実戦剣術であったと考えられます。また、大小とも帯刀した状態と言っているのは、日常を想定していると同時に、脇差の重要性を考慮しているのだと考えられます。

しかし、これは「弘法は筆を選ばず」のような、実力のある者は道具に関心がないという意味ではなく、むしろ刀身の造りから拵えまで大変な関心を持っていたことがわかっています。大名と刀剣談に華を咲かせ、刀剣鑑定までも引き受けていたわけですから、かなりの専門知識を持っていたと考えられます。こうした専門知識は、前述した小笠原長重のような刀剣マニアの大名との会話においても、大いに役に立ったことでしょう。

辻月丹自身が刀剣に無頓着だったのは、その後の都治家に月丹の愛用刀が残らなかったことからも想像できます。後年の都治家に伝わった物の中で、月丹の遺品は、枇杷(びわ)木で造った短刀、タイマイという海ガメの甲羅で造った前当て、など当時としても珍品ばかりでした。山口流剣術には脇差の形が存在することや、「無外流真伝剣法訣」には「短剣法訣」が含まれていることなどから考えれば、無外流では脇差の稽古も実施されていたのは間違いないでしょう。なお、土佐藩には短剣のための目録も残されています。


辻道場は完全に実力主義の格差社会だったようで、入門が遅かろうと実力のある者は上座に座ることが徹底していました。このくらいであれば、今日でも驚くには値しませんが、剣術の教授のために大名屋敷に移動するときも、上位者は馬乗りが許され、下位者は着物の裾をまくり上げて走らされたと言うことです。

辻月丹が江戸に来てからの、実戦記録はひとつもありません。杉田庄左右衛門の仇討の話は、直接関与したわけではないで、カウントすることは出来ません。
ただし、一触即発になったことはありました。
それは、辻月丹が弟子を引き連れて鹿島神宮に出かけたときの話です。鹿島神宮は武芸者にとってはある種の聖地でもあるわけで、辻月丹にとっては山口卜真斎の生誕の地としても感慨深かったはずです。
「筆話日記」によれば、辻月丹が枇杷木の木刀を奉納しようとしたところ、鹿島神宮側から拒否されたのでした。なお、都治資幸口伝書によれば、木刀ではなく門人の名前を書いた額を奉納しようとしたところ拒否されたとあります。
鹿島神宮側は、どうしても奉納したければ70人の香取流の剣客たちと勝負をするように主張します。鹿島には、新当流や他にも流儀があったはずで、なぜ香取流が登場するのかは不明です。鹿島神宮側は、70人の香取流を出せば、誰もが怖じ気づいて諦めると踏んだようです。ところが、辻月丹はこの申し出を受けました。すると、今度は鹿島神宮側が急に弱気になってしまい、勝負は実現せずに奉納が実現したと言うことです。




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