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無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第23回

   〜 延宝8年の政変 〜



    徳川家綱像(奈良・長谷寺蔵)
延宝8年(1680)は、辻月丹の人生では大きな意味を持つ年でした。
この年、禅の師匠の石潭良全が亡くなり、また自身は無外流兵法(剣術)を創始しました。

さらに、辻月丹の人生に大きな影響を及ぼすことになる事件としては、4代将軍・徳川家綱が亡くなったことを挙げることができます。正確に言えば、徳川家の執政で大老だった酒井忠清が、新将軍綱吉との意見衝突によって辞職したのです。事実上の失脚でした。

俗説では、次のような説が広まっています。

延宝8年5月に、嫡子のない徳川家綱の病状が悪化し、幕閣で次期将軍の人選について話し合われた。実力者の酒井忠清は、鎌倉時代の執権・北条氏にならい、5代将軍は京都から宮将軍を迎え、自身が事実上幕府を横領しようと画策した。酒井忠清が怖くて逆らえない老中たちは反対できず、酒井の案に傾きかけたが、新任の老中だった堀田正俊が家綱の弟の綱吉を推し、形勢逆転した結果、綱吉が5代将軍となった。酒井はその責任を取らされ、綱吉によって幕閣から追放された。

これは江戸時代から歌舞伎や講談でも採り上げられ、「御当代記」「武門拾遺」「徳川実記」といった史料のほか、明治18年の伝記小説「徳川執権・酒井大老実伝」にも類似のストーリーが展開します。しかし、現在ではこの説は、大筋が否定されています。詳細は別の機会に譲るとして、我々の考えだけをここでは述べたいと思います。

酒井忠清の失脚と堀田正俊の台頭、同時代の複数の史料から判断すれば、「宮将軍擁立」の幕閣での合意はあったと考えています。家綱の病状が悪化してから「宮将軍擁立」が一度は閣議で合意され、後に堀田によって挫折させられたことは間違いないでしょう。その先例は、鎌倉時代の北条氏ということになりますが、酒井忠清が北条氏のように権力を握ろうとしたというのは飛躍しすぎです。

まず、酒井忠清が大老を辞任する時期は、綱吉が徳川宗家の家督を継いでから半年も経ってからであり、綱吉の報復人事であればすぐにクビを切られそうなものですがそうはならず、また酒井に追随した稲葉正則ら他の老中全員が報復を受けるはずですが、そうもなりませんでした。つまり、綱吉が将軍になってから半年後に、酒井忠清と綱吉の間で何かがあったと考えるべきです。


       国宝 稲葉天目
   意外なことに、茶碗のなかで
   国宝に指定されているものは
   8客しか存在しない。その中で
   も、この稲葉天目(曜変天目)
   は、銀河のような美しさが別格
   で、時価50億円以上と言われ
   る。徳川家光が病床の春日局
   に薬を飲ませようと持参した有
   名な逸話のある茶碗で、春日
   局から孫の稲葉正則に譲られ
   た。(静嘉堂文庫美術館所蔵)
幕閣には春日局の孫で大老格だった稲葉正則のような、酒井を恐れない頑固な老人もいましたし、水戸光圀をはじめとした御三家や御家門、他の武功派の譜代大名も注目しているなかで、酒井忠清の私欲が許されるはずがありません。そもそも鎌倉時代の北条氏は、武力による権力闘争と粛正によって独裁を可能にしたのであって、このときの酒井忠清とは立場が異なります。

しかし、稲葉正則らは「宮将軍擁立」案に賛成しました。「御当代記」では、幕閣や尾張・紀伊両家が「宮将軍擁立」に同意した理由として、綱吉の資質に問題があった(「天下を治めさせ給う御器量なし」)という共通認識があったことが明記されています。この時代の将軍継承順位は、今日の皇位継承権のような男系の長子が優先されるのとは異なり、家綱に近親であることと、徳川家康から代が近いことが重視されました。今日の常識では、家綱に子供がなければ、次の弟の綱重で、綱重はすでに亡くなっていたので、その長男の綱豊が継承権第一位、その弟・清武が第二位となり、綱吉の出番はかなり後になりますが、この時代であれば綱吉が最優先になります。明確な理由もなく、綱吉を飛ばして綱豊にするわけにはいかず、綱吉を飛ばすには「宮将軍擁立」という案に落ち着いたのだと考えられます。


                越前松平家と徳川宗家
   越前家は、徳川秀忠の兄・結城秀康の系統で、徳川一門の中で
   も御三家を凌ぐ石高を誇る特別な家だった。秀康の子・忠直の不
   行跡で、忠直は改易され、その子・光長は叔父・忠昌の越後家と
   支配地の交換となった。したがって、松平光長の系統こそ、越前
   松平家の総領筋となるのである。

酒井忠清のような代々続く家老にとっては、主君個人に対する忠誠よりも、徳川宗家をどのように存続させ、庶民の生活に悪影響が出ないかを考えることこそ忠誠だったのです。おそらく、綱吉が将軍になれば世の中に混乱を生じさせるであろうこと(「権現様御精魂をつくされ取しづめられし天下、騒動の事あらば、御先祖御家へ対し不忠不義のわざなり」)は、この時点で誰の目にも明らかだったのでしょう。
もともと徳川家綱は病弱だったため、酒井や稲葉としては、この時点で家綱が亡くなるとは考えていなかったようです。臣下として徳川宗家の相続問題を決めることなど恐れ多いことで、とりあえず宮将軍を世子にして、家綱が本復してから決定しようと考えたのです。
しかし家綱が急死したため、酒井の狙いは堀田正俊らによって阻まれてしまいました。
堀田は事前に家綱に願い出て、綱吉を養子にする許可を得てしまったのです。さすがの酒井ら幕閣がいくら反対しても、いったん家綱の裁定が下りればそれに従うしかありません。

俗説では、堀田正俊のクーデターのように語られますが、そうではなく、幕閣以外(水戸家や御家門、大奥など)に、酒井とは意見を異にする勢力が存在していたと考えられます。また、堀田正俊にすれば、末期養子を定めずに大名が死去すれば改易になるのに、将軍が違反するわけにはいかないという切羽詰まった理屈があったのかも知れません。


   徳川綱吉像(奈良・長谷寺蔵)
酒井忠清が辞任した直接の原因は、「宮将軍擁立」の報復人事ではなく、辞任時期から考えて「越後騒動」の再審に関しての意見衝突と、綱吉の嫡子・徳松を西の丸に迎える事に反対したこと、と考えるのが、現在では定説となっています。家綱が危篤だったとき、家綱の側室・沢田氏が懐妊していたのは事実だったようで、もともと綱吉はその子が男子であれば6代将軍職を譲る「つなぎの将軍」として江戸城に入ったのでした(「松平直矩日記」)。仮にその子が女子であっても、綱吉の兄・綱重の子である綱豊(家宣)に6代将軍を譲るべきであるので、徳松には西の丸に入る資格はありませんでした。これに同意して徳松を連れずに江戸城に入った綱吉でしたが、家綱の側室・沢田氏が流産すると世子を兄の子・綱豊とはせず、自分の子・徳松にしてしまったのです。これには酒井忠清だけではなく、水戸光圀も大反対だったようで、以後綱吉と水戸光圀には緊張した関係が続くことになります。




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