MENU 〜 無外流兵法譚
はじめに 〜 無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
武道浪漫 〜 無外流兵法譚
お問い合わせ 〜 無外流兵法譚
TOPページ 〜 無外流兵法譚

       次へ
無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第24回

  〜 越後騒動再審の衝撃 〜


「越後騒動」とは、越後高田松平家で起きた御家騒動で、当主の松平光長の後継者を巡って、藩を二分しての抗争に発展した事件です。御家門筆頭と言えば越前松平家と思いがちですが、この時代の越後松平家は越前家よりも家格が上で、御三家に次ぐ格式を持った大名でした。
越後高田松平25万石は、二代将軍徳川秀忠の兄だった結城秀康の直系で、越前松平家の総領筋にあたります。松平光長の父は、菊池寛の小説でも有名な松平忠直で、素行不良で改易されて嫡子の光長が越後高田に移封されました。代わりに越前家には光長の叔父が藩主として入ります。したがって、徳川宗家や御三家ですら一目を置く越前松平家の、さらに総領筋の家ですから、徳川一門でも格別の扱いを受けていました。
実際に、松平光長の官位も越前松平家より上の従三位中将で、御三家に次ぐ家格だったのです。

この御家騒動は、酒井忠清の裁定によって4代将軍・家綱時代にすでに決着した事件でした。しかし抗争はその後も続き、ついに新将軍綱吉が自ら収拾に乗り出したのです。綱吉は、兄の頃の幕府の弱腰を歯がゆく思っていたのでしょう。再審を決定しますが、はじめから越後松平家を取り潰して新将軍の権威を見せつけたかったようです。

「御当代記」によれば、綱吉と酒井忠清の最後の会話は、次のようだったそうです。越後松平家を取り潰すつもりの綱吉に対して、酒井が異議を唱えます。

綱吉「越後守(松平光長)は大悪
   人なり。」
酒井「今の世、善人と申すは御一
   門様方をはじめ一人も御座
   有るまじく候。」
綱吉「然らば、我をも悪人と思う
   や。」
酒井「御仕置き三年はやく御座候
   。」
綱吉「それは唐の例なり。今の世
   にはあるべからず。」
酒井「拙者儀、年罷り寄り、それ
   もなき事を申し上げ候て、
   上意にさわり申し候。」


こうして酒井忠清は江戸城を退出し、大手門前の上屋敷を幕府に返上して謹慎しました。翌、延宝9年に嫡子の忠明(忠挙)が上野厩橋城主の座を継ぎ、その直後5月19日に酒井忠清は亡くなりました。享年58歳でした。

綱吉と酒井忠清の会話に出てくる「3年はやく」「それは唐の例」というのは、中国の春秋戦国時代の覇者・楚(そ)の荘王(そうおう)(在位前614年-591年)にまつわる故事です。「荘王は3年間酒に溺れて遊んでばかりいたが、その後心を入れ替え、戦国の覇者となった。だから、松平光長にも時間を与えてあげて欲しい」というのが酒井忠清の主張です。ちなみに、この言葉は「じっと機会を待つ」という意味の故事成語で、日本では「鳴かず飛ばず」という言葉の語源ともなった逸話です。


        千代田之御表 将軍宣下 (国立国会図書館蔵)

思えば、「伊達騒動」のときも、酒井家の屋敷内で殺し合いまでした伊達62万石を、酒井忠清は取り潰しませんでした。また、米沢上杉家30万石にしても、嫡子を定めずに藩主が急死したため、本来なら取り潰しが当然のところを、吉良上野介の息子を養子にして、領地を半減にして相続を認めるという異例の温情措置を講じたのも酒井忠清です。酒井忠清にとっては、罰して改易することは簡単なことでしたが、長く続いた名家に傷を付けるのは「余りに勿体ない」ことであり、罰せずに徳川家のために働かせることこそ重要と判断したのです。
さらに、今回の場合はすでに家綱の名前で決着している事件なので、それが再審ということになれば公儀の威信にも傷が付き、家綱の失態が露呈することになるとも考えたはずです。

酒井と同じに、松平越後守家の改易を大反対した人物がいました。尾張藩2代藩主で、江戸時代初期の名君としても知られる徳川光友です。


                綱吉、光友、光長の系図
   家光の男孫は、甲府宰相綱重の子・家宣(綱豊)、館林宰相綱吉
   の子・徳松、尾張家光友の子・綱成の3人だった(越智清武
   は、この時点では他家を継いでいたので、候補から外れる)。酒
   井忠清ら幕閣では、有栖川幸仁親王を5代将軍と考えていた。
   将軍となった綱吉が改易した松平越後守家が、有栖川親王と縁
   戚だったことも、後に綱吉の復讐だと憶測を呼んだ。

徳川光友は綱吉に面会し、おもに次の5点を述べて松平越後守家の改易を思い止まるように訴えました。

@ 越後守家は、御三家に次ぐ家格であり、越前家の惣領筋という特別な家であること
A 松平光長の父・松平忠直は、大阪の陣で東軍一の功績があり、御三家よりも大切にすべき家であること
B 家臣が騒いでいるのは、越後守家上層部に対してであって、幕府に対してではないこと
C 失態があるからといって改易していては、御三家も同様な場合に改易されかねず、徳川家全体の弱体化に繋がること
D これは光友一人の考えではなく、紀州藩主・徳川光貞も同じであること

この時代としては、常識的な意見であり、酒井忠清とも同じ考えであることがわかります。徳川光友の正室は徳川家光の長女・千代姫であり、その子・徳川綱成は女系を介しているとはいえ徳川家光の孫になります。一説によれば、「宮将軍擁立」の背景には、将来は徳川綱成に将軍職を譲ることが目的で、いったんは徳川宗家と異なる「宮将軍」を立てることで、綱吉・家宣(綱豊)・徳松らの影響をなくすためだったとも言われています。


     甲府宰相割腹之図
甲府宰相松平綱重は、酒井忠清によって切腹に追い込まれたという説がある。真偽は不明だが、これは、当時から噂話としては存在していたようだ。兄を殺された綱吉の恨みが、後に酒井忠清に向けられたとするのは単純すぎる話だが、綱吉と酒井には長い確執があったのは確かなようである。
酒井忠清や徳川光友がこれだけ反対したにもかかわらず、綱吉は越後高田藩の取り潰しを強行してしまいます。

酒井忠清には、徳川家の代々の家老として、たとえ自らの命に代えてでも主人に諫言し、徳川家を守ろうという、酒井なりの武士道に基づいた価値観があったのです。これほどの忠臣が、主家横領を企む悪臣のように伝えられることは気の毒に思います。とくに「水戸黄門」などの講談・実録小説では、酒井を悪役にするというパターンが出来上がっており、仙台伊達家横領や甲府宰相松平綱重を死に追いやった悪役として酒井忠清が大活躍するのです。

しかし、酒井忠清らが見抜いた綱吉の器量(「天下を治めさせ給う御器量なし」)は、その後の歴史が証明することとなります。



Back(第23回)<< 噴火の章メニュー >>Next(第25回)
トピックス 近世史研究会 〜 無外流兵法譚
2010.03.20  無外流創始330周年記念
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 噴火の章」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28
2008.11.15
史談往来 「宗偏流と石州流 辻月丹と茶湯」 アップ
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
2008.06.23
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖 辻月丹物語 青雲の章」 リニューアル  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

2008.02.01
武道浪漫 「山口流剣術とその時代」 アップ 1 2 3 4 5 6 7 8 9
2007.09.16
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖・辻月丹物語 不死鳥の章」 アップ 
2007.05.21
史談往来 「無外流と忠臣蔵 元禄赤穂事件外伝」 アップ 
2007.05.01

史談往来 「吸江寺をさがせ! 無外流が生まれた風景」 アップ 
2007.04.08
史談往来 「辻月丹はここにいる 無外流祖・辻月丹物語 青雲の章」 アップ 
2007.03.10
史談往来 「プロジェクトエックス 将軍謁見事件の真相」 アップ 
2007.03.01
史談往来 「無外流と文殊菩薩」 試験アップ 
2007.02.25
無外流兵法譚 試験アップ開始  
 COPYRIGHT(C) Modern History Workshop.

無外流兵法譚