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無外流兵法譚
史談往来 〜 無外流兵法譚
辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第25回

  〜 辻月丹の足跡を探して 〜


「越後騒動」によって、越後高田藩25万石が取り潰され、このとき浪人となった家臣のなかに家里守全(もりみつ)という人物がいます。この家里も、後に辻月丹に入門し高弟となります。
家里守全が入門した頃の辻月丹の生活は、まさに極貧でした。日々の食事もままならない有様で、家里は鈴木伝右衛門らと相談して、稽古料とは別に生活費の面倒をみようと月丹に申し入れました。しかし、月丹は「武士とは元来貧困なものだ。まして浪人なら尚更である。」と言って、きっぱりと断ったそうです。
自身の貧困を想いながら、つぎのように詠みました。

憂きとてもなどか姿を厭ふべき
   峯より落つる瀧のまにまに

この頃の辻月丹の格好は粗末なもので、麻の着物に打裂(ぶっさき)羽織、その上から袈裟を掛け、髪は惣髪で後ろをコヨリで結んだだけの質素な装いでした。

加賀前田家に指南に出かけたときは、向井宇之助という家臣の下男から、「私にも一手ご教授ください」と申し込まれました。さては、自分の身なりが粗末だから、下男にも馬鹿にされたと思い込み、「本日は疲れたので」と断りました。
しかし、相手が下男だから断るという行為を反省し、あらためて下男に指導をしたそうです。そのとき、つぎのように詠んだそうです。

小車の夢ばかりなる世の中を
   何とて厭ふ身こそつらけれ

こうした活動は徐々に実を結んで行きます。辻月丹の無外流は注目を集め、土佐藩をはじめとした多くの大名家でも採用されていきました。なかでも、前橋15万石の酒井雅楽頭家、三河吉田城主で老中の小笠原佐渡守家、土佐山内家では、藩主自ら稽古に励んだため、とくに熱心に学ばれたのです。辻月丹は甥孫の辻右平太や記摩多らとともに、こうした大名家の屋敷にしばしば招かれています。

酒井雅楽頭家では、当主の酒井忠挙(ただたか)がまだ部屋住で河内守忠明と名乗っていた延宝4年9月15日、大和柳生藩から柳生新陰流の指南役として辻義右衛門という人物を推挙派遣してもらっています。柳生藩の記録には、次のように記述されています。

酒井河内守殿ヘ辻義右衛門百石ニテ呼出サル。

酒井忠挙は、この頃から藩校・好古堂のアイディアを温めていたらしく、将来の好古堂の教官をスカウトしていました。この辻義右衛門という人物は、柳生宗矩の頃から柳生家に仕えていた人物で、辻という苗字は偶然の一致ですが辻月丹とは関係有りません。その後辻義右衛門は亡くなり、好古堂がスタートした頃には、代わりに柳生家から出淵三郎兵衛が剣術教官に就任します。しかし、この出淵も酒井家からは去り、好古堂には柳生新陰流の教官はいなくなりました。
酒井忠挙が出淵三郎兵衛に代わってスカウトしたのが、辻月丹でした。杉田庄左右衛門の仇討で、辻月丹の名前は酒井にも知られていたのでした。辻月丹は自らの出仕は断り、代わりに甥孫の辻右平太を推挙したのです。

酒井忠挙は宝永4年(1707)に隠居し、嫡孫の親愛(ちかよし)に藩主の座を譲りました。しかし、親愛は藩主としては問題が多かった人物だったようで、忠挙がその後も執政として政務を取り仕切っていました。
正徳元年(1711)には、辻月丹に対して、

稽古ハ記摩多又ハ宇平太(ママ)ニテモ宜シ。月丹ハ月二、三度バカリ話シニ参レ。

と命じたそうです。
酒井忠挙にとっては、この頃には無外流よりも辻月丹のほうに興味が移っていたようで、よほど月丹と過ごす時間が楽しかったのでしょう。

いっぽう、土佐藩では4代藩主・山内豊昌の頃から江戸藩邸での剣術稽古の相手を務め、5代・山内豊房、6代・豊隆の時代まで続くことになります。
宝永4年3月23日の「豊隆公御日記」には、

月丹召寄セラレ、御兵法御稽古遊バサル。

 
と記述が残っています。

宝永6年には5代将軍綱吉が亡くなり、家宣が新将軍に就任します。

        徳川家宣像
宝永6年、6代将軍となった家宣は、4代将軍家光以来中止になっていた、武芸上覧を復活するように通達を出します。酒井忠挙(ただたか)は、この上覧に辻月丹の無外流を推挙しようと画策します。しかし、この上覧は柳生新陰流、一刀流、それから一部の砲術流派などが実現したものの、辻月丹の上覧は実現することはありませんでした。その後、武芸上覧は中断され、8代将軍吉宗の時代に再開され、酒井忠挙は再び辻月丹を推挙することになります。

辻月丹に入門した大名小名は50人を超え、御家人・陪臣に至っては10,000人を超えていたという記録があります。俗に「無外一万」と呼ばれました。この数字がどこまで真実なのかはわかりませんが、入門した大名・旗本の数と顔ぶれから考えれば必ずしも大げさな表現とは言えません。幕末の千葉周作の玄武館をはるかに凌ぐ門弟数だったことは確かなようです。




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