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辻月丹はここにいる
 無外流祖・辻月丹物語
      噴火の章   第26回

     ~ 元禄最強伝説 ~


我々は、辻月丹に「元禄最強の剣術家」という称号を勝手に贈呈しました。

ここで、辻月丹と同時代の剣術家をざっと並べてみましょう。他にも取り上げるべき剣客はいるでしょうが、ご勘弁下さい。m(_ _)m



元禄年間を西暦1688~1703年とすれば、辻月丹が数えで40~55歳のときです。45歳で自得し、40歳代末からは多くの大名からも注目されたわけですから、辻月丹の剣術人生の中で、もっとも脂がのっていた時期だったと言えそうです。

リストのメンバーを簡単に紹介します。
長谷川主税助英信(ちからのすけひでのぶ;長谷川英信流)と和田平助正勝(新田宮流)は、剣術・抜刀術で著名な人物です。
柳生連也斎厳包(よしかね;柳生新陰流)は、尾張柳生に生まれた不世出の天才で、若い頃は「尾張の麒麟児」と讃えられたそうです。尾張藩二代藩主の徳川光友が部屋済みだった頃から光友の剣術稽古の相手を務め、徳川家光の前では、兵法上覧の栄誉に浴しています。貞享3年(1682)に隠居しており、生涯娶らず元禄7年に70歳で亡くなっています。
関口八郎左右衛門氏業(うじなり;関口流)は、柔術で著名な関口柔心の長男で、紀州徳川家に遣えました。
ここまでが、地方在住の剣術家になります。

小田(出)切一雲は、無住心剣術の2代目で、「相ぬけ」で有名です。その弟子の真里谷円四郎は、師匠の「相ぬけ」を否定して、小田切を負かして江戸を去った人物と言われています。真里谷は、小田切一雲に勝利したばかりでなく、千回戦って一度も負けたことがなかったそうですから、相当の実力者だったようです。


       心形刀流諸目録
伊庭是水軒秀明(いばぜすいけんひであき)は、辻月丹と同じ慶安2年(1649)の生まれと言われ、心形刀流を継承した人物です。心形刀流は、伊庭家に実子の有無にかかわらず、門弟中の優秀者に相伝させた流派で、秀明の頃よりも、むしろ幕末に有名になりました。千葉、斎藤、桃井と並んで、江戸4大道場と讃えられたそうです。

関根弥次郎義虎は、無敵流という富田流(戸田流)の系統の流儀を継承した人物で、芝金杉に道場を開いたと言われています。関根は松平越後守の旧臣で、越後騒動で主家が乱れたときに同僚の安藤某を斬り捨て江戸へ出奔しました。後に安藤の甥に寝首を斬り付けられ、命は取り留めたものの、後遺症で生涯首が曲がっていたそうです。

堀部安兵衛は、赤穂浪士随一の遣い手と言われた剣客です。馬庭念流と一刀流を学んでいます。とくに、江戸で師範代にまでなった一刀流の堀内道場は、小石川北野神社下にあったそうですから、辻月丹や右平太とも面識があったかも知れません。

最後にもう一人、架空の世界の代表として、劇画「子連れ狼」から拝一刀(おがみいっとう;水鴎流)をあげておきます。「子連れ狼」の時代設定は不明ですが、江戸柳生の没落と絡めているストーリーから考えれば、江戸中期と考えられます。拝一刀は、宿敵・柳生烈堂義仙とともに壮絶な最期を遂げるわけですが、柳生烈堂が実在の人物で元禄15年(1702)に亡くなっていることを考えれば、拝一刀も同年に亡くなったことになります。

     「子連れ狼」より拝一刀
    (©小池一夫 ©小島剛夕)
原作では、拝一刀の生年には触れていません。ただし、息子の大五郎が生まれて半年後に、注目すべき発言をしています。
「われは この紋(葵紋)にかしずいて二十七年、うぬ(烈堂)は六十余年」と言っているのです。主家持ちの武士にとっては、「かしずく」とは生まれることを意味します。その証拠に、柳生烈堂はこの年に63歳であり、拝一刀の台詞にある「六十余年」と一致します。
つまり、拝一刀は、大五郎が生まれた年には27歳だったわけであり、江戸八丁河原で壮絶な最期を遂げるのが、この4年後ですから、拝一刀は寛文12年(1672)に誕生したことがわかります。

彼らが元禄6年に戦ったら、誰がいちばん強いのでしょうか...?などと考えても無意味なことは承知しています。
小田切一雲までは現役とは言えない年齢ですし、堀部や拝はこの時点では若過ぎます。伊庭、関根、真里谷あたりが辻月丹のライバルになりそうです。
架空試合の筋書きは、これをご覧の諸兄が考えてください。


この「噴火の章」も、いよいよ終わりに近づいてきました。ここで、辻月丹が生きた時代に着目してみたいと思います。
辻月丹が生きた時代は、日本史では「武断政治から文治政治へ」の転換が行われたとされる時期と合致します。武士が軍人ではなく官吏になった時代です。

この時代は、武芸者にとっての「冬の時代」とよく言われます。すでに島原の乱も遠い過去となり、武士にとっての武芸は表芸ではあるものの、戦乱とは無縁の嗜みのひとつ程度にまで価値が低下した時代でもありました。
この平和な時代を、武芸者にとっての「冬の時代」と捉えられるのが一般的なようですが、別の見方も可能なようです。


  鸚鵡籠中記(おうむろうちゅ
  うき)は、尾張徳川家の家
  臣だった朝日重章が、元禄
  
4年から享保2年までの26
  
年以上にわたって書き綴っ
  た日記である。

たとえば、「元禄御畳奉行の日記」で知られる尾張藩士・朝日文左衛門の武芸遍歴に注目してみましょう。朝日は、元禄4年に槍術に入門、その3ヵ月後には弓術へ入門、ついで元禄5年に据物斬りと柔術を開始し、元禄7年には軍学と居合術に入門、さらに元禄8年には鉄砲術に入門、元禄9年に剣術入門、と各種武芸に入門、神文誓紙を乱発してます。注目すべきは、朝日の日記では熱心に稽古をした様子は窺えないのに、短期間で目録を得ていることです。とくに、居合と柔術は入門して1年以内で免許皆伝を受けているのです。武芸に熱心でもない朝日が、これほど多くに入門し、しかも短期で目録や免許を授かっていることは、この時代の武芸のあり方を表していると言えるでしょう。

まず、武士にとって、たとえ嗜みであろうとも、表芸の武芸で免状を得ることはステイタスだったはずで、そうでなければ朝日文左衛門のような免状コレクターの存在を説明することが出来ません。また、それだけ多くの道場と流派が存在していたのであり、短期間で免状を授かっていることから、おそらく金銭で即席免状を発行するようなDiploma Mill道場も多かったのでしょう。裏を返せば、道場主にとっては、免状ビジネスは貴重な収入源だったはずで、その点だけに注目すれば「武芸者にとっての冬の時代」と云う見方が必ずしも正しくないことになります。

また、たとえば18世紀の剣術について解説している文献は少ないものの、『本朝武芸小伝』(1716:日夏繁高著)、『日本中興武術系略』(1767:志賀仲敬編著)、『撃剣叢談』(1790:三上元龍著)を読むと、いくつかの面白いことがわかります。

たとえば、一般的な剣道史では、17世紀後半から18世紀を剣術衰退の時代ととらえていますが、いっぽうでこの頃に新流派が勃興していること、武士階級から武士以外の階層、つまり郊外・地方の農民や商人にまで剣術が浸透していることなどもわかり、従来の一面的な見方は再考を要するようです。とくに、防具の開発・改良は、江戸の直心影流や中西派一刀流から始まるという従来説は、かなり怪しいと云わざるを得ません。

また、これらの中で『撃剣叢談』のみに無外流の紹介があることは、辻月丹の頃よりも都治記摩多~文左衛門の頃が、おそらく無外流が江戸でもっとも知られていた可能性があります。つまり、月丹の頃は大名家には出入りしていたものの、まだ一般には知られていなかった可能性があり、大名家で正式な御出入格として迎えられた子や孫の頃のほうが名声が高まっていたのでしょう。これは、「剣術家番付」などを時系列で比較しても、同様のことが立証可能です。


さらに、武術の細分化・専門家が進み、流派の稽古システムの確立、教団化、武術の芸道化が顕著になりました。剣術を中心とした武芸を兵法と呼んでいた時代から、剣術、槍術、居合術、小太刀術など、各々に細分化して行ったのです。「死」が非日常化していったわけですから、当然、武士にとっての「死生観」も大きく変わり、それが表芸の武芸に影響を与えたことは容易に想像できます。

兵法から剣術に呼称が変化したのは、専門化だけが原因ではなく、戦場で使うための殺人術という意識が薄れていったことも要因にあげられるでしょう。たとえば、徳川家光の時代には「新陰流兵法」と呼んでいたものが、息子の家綱の時代には「新陰流剣術」になったのも、辻月丹が生きた時代だったのです。


       上:徳川家光起請文 柳生又右衛門尉宗矩宛
       下:徳川家綱起請文 柳生飛騨守宗冬宛(寛文4年)
  徳川家康、秀忠、家光までの起請文では「新陰流兵法」となっている
  が、家綱以降は「新陰流剣術」と呼び方が変わっている。言葉の置換
  えだけではなく、武断政治から文治政治への転換期と一致しているこ
  とは偶然ではない。

いっぽうで、武芸の細分化は、この頃に創設がはじまりだした「藩校」の教育カリキュラムにも、上手く合致していました。藩校教官としての武芸者の需要も起こっていました。


   市中喧嘩殺害図(武道伝来記)
  この時代は、江戸市中での喧嘩殺
  害が絶えなかったという。
さらに、まだこの時代には戦国気質の名残とでも言うべき、「死狂い」「かぶき者」「殉死」といった気質・習慣も残っていました。勇ましさを誇示するために生きた犬を食べて見せたり、些細なことで斬り合いをしたり、大した恩も無いのに亡き主君に続いて追い腹を切ったり...こうした風習を、次々に幕府は禁止します。その究極の法令が、「生類憐れみの令」という形でエスカレートしたのです。
したがって、それなりに武芸は盛んだったとも言えそうですし、また幕府の取締はそうした武芸熱に水を差す結果になったかも知れません。

こうした武芸の衰退と新しい潮流の拮抗した時代に生きながら、辻月丹の無外流は時代の波にも上手く乗ることがかない、他の剣術家が成し得なかったほどの多くの大名・旗本から入門者を獲得して大成したのです。
相手が大名であっても、体当たりも辞さない荒々しい剣風は、泰平の世に馴れきっていた人々に、大きな衝撃を与えたに違いありません。さらに辻月丹が現役の禅僧であることや、時代遅れの武者修行の経験者だったとことなど、特異なキャラクターであることも無外流が注目された一因と考えられます。

大名家からの剣術指導料だけを考えても、辻月丹の晩年は、かなり裕福だったはずです。
明治初期に編纂された「皆山集」によれば、晩年の月丹は、

後々ハ富豪ナル暮シナリシガ一日ニ一度ヅゝ焼味噌ヲ菜ニシテ食ヲヤラレシト也。若年ヨリノ艱苦ヲ忘レサル心持チ也トゾ

とあり、清貧を貫いていたことが書かれています。

こうして、江戸時代中期の武芸停滞の時代にあって、異彩を放った辻月丹資茂は、享保12年(1727)6月23日、79歳で亡くなりました。
月丹が亡くなる3ヶ月前の肖像画が残っています。



袈裟をまとい、手には払子を持つ高僧の姿として描かれています。その日は、石潭良全の命日でもありました。月丹は、石潭と同じように座禅を組み、念数珠を左手に払子を右手に持ち、都治記摩多ら多くの門弟に囲まれながら静かに生涯を終えたのでした。

都治家の菩提寺である高輪の如来寺(現在は大井に移転)には、辻月丹の墓はありません。物欲の無い月丹のことですから、はじめから墓石などはなかったと思われます。
無外流の次代を都治記摩多に託し、元禄最強伝説に幕を降ろしたのです。




「無外流祖・辻月丹物語 噴火の章」を記述するにあたり、多くの方のお世話になりました。厚く御礼申し上げます。まだまだ書き足りない点はありますが、いずれ別の機会に発表させていただく所存です。



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