では、この事件の関係者に範囲を広げて考えてみましょう。
まず、このドラマで必ず登場する二人の人物が、辻月丹に無外流を学んでいます。
一人は、将軍側用人の柳沢吉保です。柳沢吉保は、元禄十一年にはすでに大老格で、老中首座の土屋政直よりも上席でした。つまり、赤穂事件の頃には、幕府の最高実力者だったのです。

無外流を学んでいた最高権力者の柳沢吉保 |
「忠臣蔵」は、享保年間以降、その時の為政者によって武士の綱紀粛正の教材としてたびたび利用され、明治以降の軍国主義の中では、「忠義」のためなら命も惜しまないというストーリーに書き換えられたため、柳沢吉保を極悪人に仕立て上げなければなりませんでした。昭和30年代の時代劇映画全盛時代のドル箱と言われた、「忠臣蔵」「水戸黄門」「旗本退屈男」などは、すべて元禄時代が舞台なので、極悪人・柳沢吉保が大活躍します。今でも「忠臣蔵」は柳沢吉保がフィクサーであるかのようなドラマがありますが、進歩が無いと言わざるを得ません。

桃井若狭之助
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もう一人は、浅野長矩と同役の、院使御馳走役だった伊達宗春です。
伊達一門は、辻月丹の最大の後援者だった酒井雅楽頭家ととくに親しい関係があるため、伊達宗春もそのつながりで辻月丹の無外流に入門したものと考えられます。
「仮名手本忠臣蔵」に登場する「桃井若狭之助」は、伊達宗春がモデルです。伊達宗春は、享保十年に若狭守を受任しており、「仮名手本忠臣蔵」ではそこから命名されました。
この事件が他に類を見ない点は、大石良雄ら旧家臣たちが、一年九ヶ月もの歳月を経て、吉良義央邸を襲撃した事実に尽きます。
期間を空けることは、相手を油断させる効果はあるでしょうが、脱落者や密告者(裏切者)がでるリスクが大きく、普通ならばもっと早く討ち入るべきです。また、あえて警備の厳重な屋敷を襲撃することも、戦術からすれば最良とは言えないように思えます。
襲撃までに期間を要したのは、浅野家再興運動の結果が判明するまで一年半かかったからで、御家再興の望みが絶たれてから討ち入りを計画するという、一応の順序を踏んでいたためでした。
吉良義央の外出先ではなく、わざわざ厳重な警護をした屋敷を襲撃した理由は不明ですが、あえて困難な手段を選択したのは、「幕府に御政道の過ちを気づかせるため」「敵は上野介にあらず。将軍徳川綱吉だった」という、ドラマ性のある解釈を生むことになります。
いずれにせよ、大石良雄としては二回目のない襲撃だったはずで、確実に吉良を殺傷できるように細心の計画が練られています。例えば、襲撃時刻は十二月十五日午前四時頃、つまり人間がもっとも深く眠りに就いている時刻を選んでいる点、吉良邸に進入して最初に、吉良邸内の藩士が住む長屋の戸を外から鎹(かすがい)で押さえて、藩士を閉じこめてしまった点などです。

本所松坂町の吉良邸跡
(現東京都墨田区松坂町公園) |
その中でも、一回必殺の必要条件として、吉良義央が確実に屋敷内にいる日を選ばなければなりませんでした。十二月十四日を襲撃決行日と定めたのは、その日に吉良義央が屋敷に滞在していることを突き止めたからです。大石良雄は、この日に吉良邸で年忘れの茶会が催されることを知り、ホストの吉良義央が当日は自宅にいるのが確実と読んだのでした。
そして、この日の茶会の主賓が、老中の小笠原長重(佐渡守)です。(副賓は、隠居した吉良義央に代わって高家肝煎に就任していた大友(近江守)義孝です。)
小笠原長重は、元禄四年(1691)に京都所司代となり、元禄十年(1697)からは老中も兼任しているため、職務で京都での滞在が多い吉良義央とは、もっとも親密な幕閣の一人でした。
小笠原長重が接待を受け、吉良邸を出た数時間後に赤穂浪士の襲撃が始まったのです。この晩、小笠原長重が吉良邸に宿泊でもしていたら、命を落としていたかも知れません。
十二月十五日朝、幕閣全員が柳沢吉保から緊急の招集を受け、高輪泉岳寺に立て籠もる赤穂浪士の処理について協議をします。このとき、全員打ち首という方針が決まりますが、問題は浪士側の兵力が不明なため、どのように武装解除させるかという点でした。

泉岳寺(東京都港区) |
武装解除のための交渉の進め方を幕閣内で議論するのですが、小笠原長重だけが終始一貫して、「幕兵を差し向けて、命令に従わなければ全員を討ち取る」という強硬な意見でした。藤沢周平の「用心棒日月抄」では、小笠原長重が赤穂浪士の支援者のような設定で描かれていますが、これはまったくのフィクションです。
小笠原長重は、柳生(対馬守)宗在(むねあり)に師事した新陰流の達人で、一刀流も免許皆伝だったと言われています。その激しい剣風は、若い頃から「小笠原流」「手強風」などと呼ばれて恐れられていましたが、後年は無外流一筋で、晩年は辻月丹を自宅に招いて武芸談に華を咲かせていました。辻月丹が亡くなって五年後の享保17年(1732)に、八十三歳で亡くなりました。
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