どうやら、田村家では高輪東海禅寺(現・東禅寺)と、麻布吸江寺を使い分けていたようで、辻月丹が参禅を続けていた頃、吸江寺で五回の葬儀を行っています。
そして、問題の元禄十四年です。
藩主・田村(右京大夫)建顕(うきょうのだいふたつあき)は、将軍・徳川綱吉から寵愛されていて、元禄四年(1691)には外様大名でありながら、譜代大名にしか許されない江戸城奥詰に任じらており、藩邸の記録を読む限りは、元禄五年(1692)には奏者番に出世しています。
元禄 五 1692 建顕公四月六日於殿中忠度の御能勤。
八月十五日御奏者番役被蒙仰則
数寄屋御門番御免。
田村建顕の江戸城中における勤務ぶりを見ると、徳川綱吉や幕閣から気に入られようという下心もあったのでしょうが、誰よりも早く登城して、遅く帰宅するという、忠勤ぶりが窺えます。
しかし、これが裏目に出ました。
元禄十四年三月十四日は、刃傷事件が発生したため、大名たちはこぞって早く帰宅しました。その日の晩に、浅野長矩の即日切腹処分が決まりますが、柳沢吉保が城中に残っている大名を訪ねると、田村建顕だけが帰宅せずにいました。そのため、田村建顕邸への浅野長矩の御預けとその晩の切腹が正式に決定されたのです。

田村邸の庭先で切腹する浅野長矩 |
田村邸での切腹は、浅野長矩のような五万石の大名では考えられない、庭先での切腹という異例なものでした。田村建顕としては、幕府の命令に従ったに過ぎないのですが、後日、大名たちからは情けを知らない奴だと、非難が集中することになります。
まず、翌十五日に浅野家本家の芸州広島藩浅野家から田村家に対して、「何故庭先で切腹させたのか」と厳しく抗議され、田村家の本家筋にあたる陸奥伊達家からは、一族の恥とばかりに、絶縁状を叩き付けられてしまうのです。
なかには、日頃から田村建顕の忠勤ぶりを苦々しく思っていた大名たちもいたでしょうが、田村建顕としては、とんだ貧乏クジを引いた思いだったことでしょう。
辻月丹が十九年間も参禅を続けた麻布吸江寺が、浅野長矩の切腹を見届けた一関藩・田村家と深い関係があったことも、「赤穂事件外伝」として知っておけば、今後は違った思いでドラマに入り込めるかも知れません。
辻月丹は享保十二年(1728)、七十九歳の生涯を閉じ、高輪にある如来寺に葬られたと言われています。現在、如来寺は品川区大井町にありますが、辻月丹が葬られた頃は、港区高輪にありました。
如来寺は、寛永年間に木食但唱が建てた寺院で、五智如来像のあったことから「高輪の大仏(おおぼとけ)」と呼ばれた、江戸でも有名な観光名所でした。
辻月丹が葬られた享保年間には、如来寺よりも隣接する寺院のほうがすでに有名になっていました。
それが浅野長矩と赤穂浪士が眠る泉岳寺です。

つまり、如来寺と泉岳寺は、まさに隣接していたのです。
辻月丹は、泉岳寺に墓参したかも知れません。また、近くには伊達家の菩提寺で、伊達宗春や田村建顕が眠る東海禅寺(現・東禅寺)もあります。
幕末の東禅寺山門の写真が残っています。海の前で生まれ育った人ならわかるでしょうが、この寺の前は江戸湾に臨んでいて、海の前だったことが想像できます。

安政年間頃の東海禅寺 |
現在の泉岳寺の山門も、この写真の東禅寺に良く似ていますから、辻月丹が葬られた頃の如来寺も、おそらくこのような雰囲気ではなかったかと想像できます。
現在は、お寺の前は京浜工業地帯の埋立地ですが、この時代は前が海だったのです。
我々は、「忠臣蔵」は史実の「赤穂事件」とはまったく別の物語だと考えています。では、「忠臣蔵」が嫌いかと聞かれれば、好きだと答えるでしょう。この物語には、日本人が愛してきたすべての物語が含まれているからです。
そして、どのような解釈であれ、日本人が「忠臣蔵」を受け入れている間は、日本という国はまだまだ大丈夫だと、根拠のない自信を持っています。
年末年始に「忠臣蔵」に触れる機会があれば、無外流との係わりという視点から見直すだけでも、同じ物語をいっそう楽しむことが出来るかも知れません。
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